退院交渉のノウハウ

人質をとって立てこもった犯人との交渉技術は自分たちの領域でも応用できそうなものが多い。

患者さんやご家族は犯罪者ではないし、要求が「病気が良くなること」であるうちは、医師と利害が相対することなどありえない。しかし、要求が「できる限りの入院期間の延長」である場合、話は違ってくる。

病院というところは一度入院してしまうと、医療者側に退院の決定権はない。「強制退院」などは、実際にやろうとすれば大変な覚悟が必要で、退院後に何かあったら必ず大きなトラブルになる。

転院先の老健施設はコストが高いわりに人手が少なく、サービスは十分に行き届かない。急性期病院は保険も効き、スタッフも十分そろって安心。家族はすべて「お任せ」にしておけば、何から何まで面倒を見てくれる。

高齢者の入退院を何度か繰り返せば、ほとんどの家族は急性期病院の長期間入院がもっとも「お得」であることを見抜いてしまう。大体、老健施設は解除の人が1日2回見回るだけで1ヶ月に40万円、救急病院ならバイタル4検体制であっても医療費は事実上タダ。どちらが得なのか、誰でもすぐに分かることだ。

東京の人は何が正しいのかを見抜くのが早い。都立の病院などでは、退院のムンテラをすると弁護士が付き添ってくる。高いお金を出してサービスの悪い老健に移されるぐらいなら、弁護士を雇って都立病院に2-3年置いてもらったほうが家族としてもはるかに安くつく。患者の予後も多分そのほうがいいだろう。困るのは医療従事者だけ。これをやられると病院がパンクする。

実際問題、本気で開き直った家族に退院のお話をしても医療者側にまったく勝ち目はない。まだかろうじて白衣の力が効く相手、医者を怒らせると「強制退院」が本気で執行されるかもしれないと思っている家族には、まだなんとか交渉の余地がある。このあたり、警察よりも我々のほうがずっと交渉の分が悪い。

以下、普段気をつけるようにしていること。

まずは聞き役に徹し、家族に話をさせる。相手の家の事情、困っていることなどとにかく口をはさまず聞く。お互いの連帯感情を構築するためには必須である。売り言葉に買い言葉ほど危険なものはなく、とにかくまずは聞く。

怒りながらムンテラにのぞんだ家族であっても、その精神の緊張状態は30分ほどで終わる。この間聞き役に徹していると、だんだんと落ち着きを取り戻す。交渉はこのタイミングを見計らい、アプローチしていく。

交渉者が医者としての権威的な立場を崩さないと、家族は絶対に抵抗する。相手の感情を逆なでせず、問題を一緒になって解決する存在であることを認識させなくてはならない。

大きな声でしゃべるのは問題外で、相手との公平な立場を構築することができず、家族と医者との間に明らかな力関係を作ってしまう。家族も大声で対応しなくてはならず、心理的にも抑圧されてしまう。相手を疲れさせれば勝ち、という考え方は絶対に通用しない。

人は誰でも、第一印象を基準に物事を判断する。退院日のことだけを気にかけている素振りを少しでも見せると、家族は敵意をむき出しにする。話題の中心は患者さんの病状にするべきで、穏やかに接することが大切である。

家族の話し方に、交渉者も口調を合わせる必要がある。相手に合わせずに一方的な話し方や言葉遣いをすると、その気はなくとも教育水準や環境の違いを馬鹿にされたり、見下された印象を相手が持つ可能性がある。(これには全く逆の意見もあり、医者が口調をくだけさせてはいけないという人もいる。)