別の病気では、たとえば半年の勝負で最終的に51対49でも、ポイントが多いほうが「勝者」だ。

勝利目標が「大差をつけること」ならば、どこかでギャンブルに出ないと絶対に勝てない。敗血症の治療などがそうだ。一刻も早く、ためらい無く抗生物質を落とさないと、勝負はどんどん不利になる。

一方、勝負のゴールが「僅差で勝つ」ことならば、物量の投入が必須になる。持久戦で勝負するには、どちらがより多くの「物量」を持っているのかが勝負の全てだ。例えば劇症型心筋炎。どこまで「えげつない」治療をためらい無く継続できるか。主治医の心が折れたらそのときが負けだ。頑張っても非常に厳しいけれど。

同じ病名、同じ薬を用いるときでさえ、その戦略が異なるときもある。たとえば抗がん剤による化学療法は、従来型の「**攻め**」の治療法とは別に、「**守り**」の戦略というものが考えられている。

##従来「攻め」の戦略
抗がん剤が腫瘍細胞と正常細胞とを見分けているのは、その分裂速度だけだ。正常細胞であっても、白血球や毛髪といった分裂の早い細胞は、抗がん剤の悪影響を受ける。抗がん剤を使っている限り、こうした副作用はどうしても見られるし、抗がん剤を大量に用いれば、腫瘍は無くなっても白血球もいなくなる。

従来型の抗がん剤治療というのは、治療の目標を「腫瘍のせん滅」に置く。腫瘍を消すための抗がん剤の濃度というのは、大体決まっている。治療戦略の最適化の目標は、いかに副作用を少なく、抗がん剤血中濃度を上昇できるのか。いろいろな治療戦略が考えられてきたが、作用と副作用、どうしてもその間にはギャンブル的な要素がある。なかなかブレイクスルーが出ない。

##「守り」に重点をおいた腫瘍治療
一方、同じ抗がん剤を使った腫瘍治療でも、その治療の目標を「腫瘍のせん滅」ではなく、「腫瘍の成長阻止」におく考え方が生まれてきている。

たとえ癌細胞が体の中にあっても、成長しなければ生体は死なない。腫瘍をせん滅するのに必要な抗がん剤の量は大量だが、成長を抑えるために必要な抗がん剤は少量で済む。この考え方から生まれた治療戦略は、抗がん剤を少量ずつ、長期間(生きている間ずっと)にわたって投与する。

この考え方で抗がん剤を使うと、薬剤は腫瘍そのものではなく、腫瘍が作る栄養血管に対して効く。血管の細胞は正常細胞だから、癌細胞よりよっぽど薬が良く効くし、耐性もつきにくいらしい。

こうした方法は、従来とは治療の目標自体が違うので、以前のものさしではその優劣が判断できない。従来流の治療戦略は、その効果の評価に「腫瘍がどれだけ小さくなったか」を使う。「守り」の方法論で抗がん剤を使っても、腫瘍は小さくならない。この方法は、「攻める」発想から見れば、効果の無い治療だ。

でも患者は死なずに長生きする。僅差の判定勝ちを拾いに行く治療戦略だ。

まだまだマイナー(私が不勉強なだけか?)な方法論だけれど、考えていることは「正解」に近い気がする。サリドマイドが多発性骨髄腫に効果があった、というNEJMのペーパーあたりから、こうした方法は徐々に取り上げられるようになってきている。

##目標の無い戦略はありえない
「勝つ」にはどうすればいいのか。どういう戦略を取るのがもっとも正しい方法なのか。

多科にまたがる複雑な疾患の患者さんの治療方針を合議で決定するとき、ドツボにはまるのが
「**誰も目標を示せない**」という事態だ。

この患者さんの治療目標というのは、「どんなに侵襲的なことをやっても、とにかく生かす」なのか、
「いい人生だった。といって安らかに見送る」のが目標なのか、治療する科が複数になると、
このあたりが見えなくなってくる。

誰もがゴールを決められないとき、それぞれの専門家は、お互い勝手に「最適化」をはじめる。

外科は「自分たちが最適と思う」手術を行い、それは内科から見れば必要な手技が行われていなかったり、逆に過度に侵襲的なものであったり。内科は内科で、外科から見れば不本意な透析を勝手にオーダーしてみたり、いつのまにか山のような内服薬を処方していたり。

誰もが勝手に最適化をはじめると、総合的な治療戦略はめちゃくちゃになる。船頭が多くなると、船はどこに流れるか分からない。誰もが勝手に舵を切り始めた「船」の行き場は、たいていは黄泉の国だ。