福島県人の多い科に逆らうと、忘年会で飲まされるから…

議論とディベートとは全く違う。議論というのは、一種の地勢学だ。どういう軸で攻めれば、
うまく落しどころに持っていけるのか。たいていは、相手陣営を笑わすことができれば、こちらの「勝ち」だ。

自分自身が勝ち組に入ることすらも必ずしも正解とは限らない。51対49で議論に負けるというのは、
同時に**49人の仲間ができる**ということだ。議論の流れが見えてきて、
負け側に親しい人がいたならば、敢えて負け側につく「勝ち」だってあるかもしれない。

##結局最後は個人と個人
>「誠実な外交」などという言葉は、「木製の鉄」や「冷たい火」と同じだ。言葉自体が矛盾している。

それでも現場では、お互いのグループの対立を超えた、個人の協調の可能性というものを信じたい。

背負っている物はとりあえず置いておいて、その人個人の持っている
力や経験をお互いに提供しあえるならば、まだまだいろいろなことがやれる。
自分にまだ提供しうるに足る「それ」があるということも含めて、
個人の持つ力というのはもっと大きいと信じたい。

現場から体が遠のくと、楽観主義が現実にとってかわる。
頑張らなくても、何とかなるだろと思ってしまう。

集中治療室というところは主治医にはならないから、
患者さんの「現場」からは少しだけ遠い立場に
身を置ける。

これはとても楽なのだけれど、やはり自分の中から何かが抜ける。このままではいけないと思う。

来年からは、また現場に出る。たぶん。