鉄ヲタが実際に鉄道会社に修飾したとき

再構築を受けた知識というのは、あるものは淘汰され、別のものは便利に利用されて、
最終的には現実世界での自分を助けてくれる。

それでも、学んだ知識というのは
しばしば抽象的過ぎて、現実に適用するのが難しい。

抽象化は、その過程で常に何かを失う。

知識先行型の人間が取り込む大量の知識というのは、
体験が伴わない分、必ず誰かによって抽象化され、蓄積が容易になっている。

ところが、チェスの駒で本当の戦争ができないように、
抽象化した知識を用いて実世界で活用するのは難しい。

それを査定して、また実世界で通用するように転換
するシステムというのは、実世界の体験を通してしか
自分に導入できない。

##意識の土台を作る変成する経験
実世界の体験を通じた知識というのは、すぐに散逸する。

日常臨床や、普段の何気ないおしゃべり。こういった経験はいくら積んでも
きりがないし、すぐに変成してどこかに消えてしまう。

それでも、みんなでおしゃべりするとか、上司と一緒にご飯を食べるとか、
そうした変成してしまう経験を何度も繰り返していくと、「現場感覚」というものがだんだんとできてくる。

知識の蓄積はとても大切だけれど、変成する経験を重ねることというのは、
その人の判断の土台、あるいは測定のゼロ点に相当するものを、
より明確にする効果があるんじゃないかと思う

全盛期の立花隆(今はどうしちゃったんだろう…)の
ルポルタージュがあんなにも説得力にあふれていたのは、たぶん理由が2つある。

一つは、膨大な資料を読破していたこと。もう一つは、
常に問題の当事者の人達と直接に会話を交わして、
判断規準の「キャリブレーション」を、きっちりと行っていたからだ。

どんなに精密な測定機器であっても、定期的なキャリブレーション(ゼロ点較正)を行わなければ、
その値は信用できない。

いろいろな人とあって会話をして、自分の中に「変成する経験」を重ねるという行為は、
たぶん自分という測定器のキャリブレーションを行う意味がある。

実際の現場にいる人とたくさんの会話を通じて、自分の中に仮想的な「現場感覚」を作りあげて、
膨大な資料を読破して得た知識を再構築してのけたことこそが、
かつての立花隆の説得力の秘密だったんじゃないかと思う。

##経験の量はその人を変える
現場感覚を体験するとか、あるいは現場の空気を吸うという経験は、
その経験数を増すほどに、その人の質を変えていく。

本を読んで得られる知識の蓄積が連続して実感できるのに比べると、
現場体験というのはすぐに変成してしまって、自分が変わったという実感が得られにくい。

現場仕事というのは汚くて、成長の実感が得られないから、みんな嫌がったり、
いつまでも現場にいる奴は「負け組み」認定されたり。

現場感覚の習熟の工程というのは、連続しない。途中で飛躍があったり、
過去との断絶があったりして、
階段状に成長していく。

40人の入院患者さんを受け持つための方法論と、10人の患者さんを受け持つための
やりかたとの間には、ある種の断絶がある。40人受け持てる人が10人を受け持つことは
もちろん可能だけれど、10人しか持てない人のやり方とは、もはや全く異なってしまう。

10人を12人にする、12人を15人にする…と徐々に増やしていく過程では、
あるいはその断絶には気がつかないかもしれない。

けれど、10人受け持つのがやっとだった頃と、頑張れば40人の受け持ちの負荷にも
耐えられるようになったときとでは、メモのとりかたや患者さんとの話しかた、
あるいは自分の思考のプロセスというものは、違ったものになっている。

研修医のときに受け持つ患者さんはいろいろで、興味深い症例の人もいれば、
「主訴、入院希望」とか、単なる食欲不振だけとか。

そんな人をたくさん受け持つのはつまらなかったり、
あるいはそんな人ばかり診ていたんでは実力がつかないとか、
果ては「**腕が腐る**」とか、ひどいことを考える奴もいたりしたけれど、
決してそんなことはないと思う。

「つまらない病気」の人というのは、医学的には手を出す余地の少ない人、
より「正常」に近い人。

独立して一般内科などをやるようになると、
一番大切になってくるのが「正常ってなんだっけ?」という感覚で、
こればっかりは正常な人を数多く診ないと身につかない。

検査なんかでも同じで、たとえば心電図を読むとか、エコーをやるといったことから
もっと複雑な検査に至るまで、最初にやらなくちゃならないのが、
自分の頭の中に「正常値」を作ること。

人の入院経過というのはいろいろなのだけれど、「この人はいつもの経過から外れている」という
読みだけは、いくら論文を読んでも、あるいは「興味深い症例」をいくら見た経験があっても
なかなか身につかない。

難しい手技を何回やったとか、めずらしい症例の患者さんを何人持ったといった
経験もきっと大切なんだけれど、そうした機会が少ない施設にいったとしても、
そこで得られるものというのはきっとあって、それは案外、難しい手技ができるように
なることよりも大切なんじゃないかと思う。

「量」を「質」へと転換させる一つのコツは、とにかく誰かと接する機会を増やすことだ。

論文をたくさん読むとか、教科書をひたすら独学するという行為は、「蓄積」を作ることはできても、
「量」は「量」のまま。知識は腐らないけれど発酵もしないから、何かに転換するということもまた少ない。

そうした勉強よりもむしろ、風邪ばっかりの外来をたくさんするとか、
とにかくいろんな患者さんを山ほど診るとか、
ベテランと一緒に、それこそ食事からトイレに至るまでダラダラ一緒に行動してみるとか。

そうした一見無駄な行為を積み重ねることは、たぶん結構大事だ。

変成する経験知を積み重ねていって、いつか「断絶した過去の自分」を
認識できるようになったとき、そのときこそが「ベテラン」
の仲間入りをした瞬間なんじゃないかと思う。