傾聴という万能薬

設計者の発言: モデリングセッションに必要な能力「共感力」を読んで考えたこと。


「初めて吉野に花見に行ったのだけれど、千本桜ってのは誇張じゃないんだね。すごいなあ、あれは。」

春の休み明けに読者の友人がそんなことを言ったとする。それを受けて、読者は以下の6つの発言のうちのどれをいかにも言いそうだろうか。自分の会話のクセを思い出しながら考えてみてほしい。

1:桜の季節じゃなかったけど、吉野には3年くらい前に行ったなあ。
2:後醍醐天皇とか天武天皇にゆかりの深い歴史スポットだよね。
3:でもこの季節だとクルマの渋滞がひどくなかった?
4:千本桜くらいだと毛虫もすごいだろうな。千匹どころじゃない。
5:いいなあ。オレなんてまた土日とも仕事だったよ。
6:へえ、そんなにすごかったんだ。ドヒェーみたいな?

この例のように感情的要素が強調された発言に対しては、まずは「そこに込められた感情を認める応答」、すなわち「6番」の類型で応えると、対話を気持ちよくすすめられるようになる。

相手の話を聞く際に大事なことは、「あなたの話を興味深く聞いています」というメッセージを常に送りつづけることで、そのための方法論として上記のようなことに気をつけるのはとても大事。ところが実際に医者が患者の話をまじめに聞くことなどまれで、受け答えはしばしば上記の「1〜5番」のようなことをやってしまっている。

外来などでは時間が無い上、患者さんは少なくとも自分のところまでは歩いてこられる程度に元気な人が多いので、下手に「共感的理解」などやろうものなら、話が終わらず外来がパンクする。このため、今までも話の的をわざと外し、言外に「あなたの話には興味はないんですよ」とメッセージを送ることはよくやる。同僚からも「あんたは人間をなめてる」と怒られる。

内科に入院中の患者さんとはお話をする時間も増えるのだけれど、こうした「共感」の関係を作ってしまうと、主治医側が非常に疲れる。医者を長くやってきて(それでもほんの10年だ)、仕事に手を抜くことを覚えてくると、患者さんの心理に共感するのを本能的に避けるようになっている自分に気がつく。

口では饒舌に患者としゃべり、また患者さんの話をよく聞く医者を演じていても、また実際に患者さんと交わす言葉の量なら自分は研修医以上だと思うのだけれど、この数年は共感的な態度で人の話を聞く機会は減っている。

もっともこれは仕事をしている科の問題もあり、循環器内科に入院する患者さんは、基本的にはよくなって退院する人が多いので、心理学的なフォローについてはある程度手を抜いても致命的な問題にはならない。少なくとも、今の病院にはもっと上級の医師がいるので、自分ひとりが手を抜いても一応大丈夫。

普段やりなれていないからなのか、たまに「共感的理解」を心がけて人の話を聞くと、非常に疲れる。前のサイトから再び引用。

ユーザが、どんなやり方を工夫したかを説明してくれたとする。その発言には、かつてうまくいったときのユーザの喜びやプライドといった感情が込められている。その感情を無視するのはもったいない。「すばらしいアイデアですね。それがうまくいったときはどんな気持ちでした?」。ユーザは生き生きとそのときのことを語ってくれるだろう。
これを実際にやってみると、非常に体力を消耗する。話をする相手が「感情を込める」タイミングを読むのが非常に難しい。患者さんの話を聞いている間中、ずっと集中していないと絶対に見逃してしまう。

合いの手の入れ方も、外すと非常にわざとらしくなるし、「反復法」でオウム返しに反応を続けていても、タイミングを間違えると非常にアホな雰囲気になり、気まずくなる。

テクニックに走らず、自分の「本能と誠意」で相手に対応しようとすると、たいていは「共感的理解」とは外れた返事をしてしまい、結局傾聴の意味がなくなってしまう。かといって、問題を精神科に丸投げにしても、「じゃあ、主治医のあんたはなんなんだ」と自問自答してしまい、これもまた疲れる。

根っこの部分で人間に興味のない奴が「共感的理解」なんておこがましいのかもしれないが、精神科の医者が「疲れた、疲れた」と言いながら5時には帰ってしまうのは、やはりサボっているのではなくて体力を使うからなのだろう。

「共感的理解」と「傾聴」は、心理学的なテクニックの基本ではあるし、またどんな人にも万能薬的に作用する、副作用が無い、とまさにいいこと尽くめなのだけれど、現場ではもっと強い効果を期待したくなることがある。余命がもう残り少ない人、心理的にではなく、物理的に苦しんでいる人などでは特に。

「先生、もうこんなにやせてしまって…」
「食べたいんだけれど、ご飯が食べられないんです…」
こうした訴えに対していくら話を聞いても、「そうですねえ…」以外の返答は怖くてできない。

ただでさえ病気で入院している患者自身、そこに持ってきて「やせてしまった」「ご飯が食べられない」自分というのはなんて駄目な奴なんだ、という否定的な自己イメージでダブルパンチを食らってしまった人に、ただただ話を聞くだけというのはいかにも弱い。

米国の選挙では、相手の候補者からネガティブキャンペーンを張られた場合はすぐに切り返すのだそうだ。

今回の大統領選挙では、「馬鹿なブッシュ」のネガティブキャンペーン民主党サイドから大々的に行われた。
これに対して、共和党サイドは「Charm Bush」(お茶目なブッシュという意味か?)というキャンペーンを張り、馬鹿だけれど暖かいブッシュに対して、頭はいいけれど冷酷なケリーという逆宣伝を行った。
以前の選挙で、選挙民の良識を信じ、こうした馬鹿げたネガティブキャンペーンに無視を決め込んだ候補者は、大差で落選したことがあるのだそうだ。

今の選挙のは人間の「良識」というものを否定し、「人というのは騙されやすく、また非常に騙しやすい」という方法論で大成功をおさめている。

次元は違うけれど同じ人間を相手にする仕事として、カウンセラーは「人の心の強さ」というものを信じている立場だと思う。「人間の心は強い」、「思いを吐き出させることで、心の自然な回復を促すことができる」というのがカウンセリング、特に傾聴を行う人の方法論だ。

こうした方法論は、体が病気になっている人にも通用するものなのだろうか?

体が弱ると、自分の悪い面ばかり見てしまう。

カウンセリングを行い、認知のゆがみを取ることで、悪い部分だけはでなく、いい部分を見られるようにするというのがカウンセラーの基本戦略だが、末期がんの人に「いい部分を見ようよ」と説得するのは相当難しいのではないだろうか?

実際の方法論は全く分からないし、半端な知識を持った人間がやることではないと一応理解はしているつもりなのだが、患者さんの認知のしかたを治療者が積極的に書き換えるというのは、ありえない方法論なのだろうか。

また例によって「洗脳」とか「自己啓発セミナー」とか、そういった分野の方法論を引っ張り出すことになるのだろうが、病気で弱った人の「認知の形を変える」ことは、たぶんそんなに難しいことではない気がする。

実際問題、末期ガンの人の財産を騙し取る健康食品販売業者などはまさにこれをやっている。みぐるみはがされ、体の具合がどんどん悪くなっていても、患者さん自身は「この薬の進歩に貢献できた」とそれなりに満足感を持っていたりする。この期に及んで「いやそれはあなたが騙されたんですよ」などと「認知のゆがみ」を正しても、それこそ一生恨まれかねないので、やらないけれど。

結果としてその人は業者にだまされても、その人は確かに一定の満足を得ているように見える。

自分は精神科の研修は全く受けておらず、心理学も大学の教養ではるか昔にかじっただけ。だからこのあたりの話題はすでに精神科が何年も前に通過しているものなのかもわからないし、そもそも全くのヨタ話なのかもしれない。

今このあたりの分野、どうなっているのか、誰か教えてくれませんか?