全体を把握する

研修をさせてもらった病院では、まずは部分の専門家になることを求められた。

細い血管にも点滴が取れるようになること、必要な時にCVラインを取れること。気管内挿管、心臓マッサージといった救急手技。そして疾患ごとの治療方法や、薬剤の使い方といった知識。

効率はよかった。数をこなせばどんな手技でも(たぶん)すぐに上手くなる。自分は成長の遅いレジデントだったが、それでもたぶん、同世代の大学研修医の平均よりは、少しだけ手技は上手だったような気がする。CVラインは1年目、内視鏡は1年目の後半。カテは2年目。たぶん、今でも同じだと思う。

教育は、レジデントをまとめてカンファレンスを行う。抗生物質の使いかた、胸部単純写真の読みかた。医学教育の分野では有名な先生方が定期的に来てくれては、いろんな知恵を授けてくれた。

手技が身についたり、知識が増えてきたりすると自信がつく。何でもできる気になってくる。実際問題、2年目も後半に入ると、入院患者さんの手技に関することで上司の助けを借りる機会はほとんど無くなる。

「もしかして、内科極めた?」こんな阿呆な考えがレジデントの頭をかすめる頃、当院では他の病院への出張業務の機会が回ってくる。

行き先は田舎の小規模病院。救急車も1日に数台。病棟も「ヌルい」病名が並ぶ。「こんなところ楽勝、せいぜい手技の練習でも使用かな。」こんなレジデントの根拠の無い自信は、勤務1日目から打ち砕かれた。

まず患者さんを外来で診ても、どういう人を入院させていいのか全く分からない。軽症そうでも原因の分からない人、重症そうでも、カルテを診ると前から同じ症状でかかっている人。なんとなく入院させたほうがよさそうなのだが、じゃあ入院させて何をするのか?

いままでは「判断」というのは上司の仕事だった。入院させて検査をする、具合が悪そうだから入院する。具合の悪い人なんかみればすぐ分かる。レジデントの頃はそう思っていたが、実際には全く見ていなかった。「入院させなきゃいけないほど具合が悪いって、具体的にはどういう人なんだ?」。

具合が言い、悪いという判断は、結局のところ経験の積み重ねの中から平均値を作り、それを基準にするしかないと分かったのは後になってから。見れば分かるなんて思っていて、実は就職してから2年間、「見る」ことなんか一度もまじめにやっていなかったことを知るのは、自分が一人ぼっちの主治医として現場に立たされてからはじめて気がついた。

もちろんガイドラインは手元にある。でも、実際にガイドラインどおりに仕事をしたことなんか一度も無く、全て「上司の命令で」動いていただけ。いくら文献が手元にあっても、経験の裏打ちの無い知識なんて自分を全く助けてくれない。

自身満々だったのは1日目だけ。以後はそこの病院長に泣きつき、様々な判断の助言に乗ってもらった。

3ヶ月もすると、曲がりなりにも入院から退院までの患者さんのマネージメントをするということが分かってきて、一人でもいろいろな判断をすることができるようになった。この後、勉強をするときの意識は相当変わったように思う。

患者さんを外来で診察して、何らかの目的で患者さんを入院させ、検査や治療を行った後、再び外来でフォローする。

こうした一連の流れの全体像を研修初期に把握するというのはとても大切なように思うのだが、一方でこうした教育は近年、非常にやりにくくなっている。

実際問題、自分の尻一つ拭けない研修医を医者のいない病院に放り出すこと自体、今の時代なら許されないことだろう。医療という仕事にしても分業化が進み、「一人で全部やった」という経験を持っている医師はたぶん30以下の医者にはほとんどいないのではないか。

患者さんの入院のインディケーション、ベッド管理、写真の読影、血液検査の機械を自分で動かす。医者としての仕事はもちろん、機械の整備やベッド調整、電話の受け答えまで何でも自分も手伝わないと終わらない環境で仕事をするのは、10年前までは結構当たり前の光景だった。

市中病院での研修を終えて大学に入って分かったのは、いわゆる「専門研修」として批判されている、その科の領域のみ研修をしているレジデントなんで、自分と同世代よりも若いやつらだけだったということだ。

大学でスタッフとして働いている人たちは、自分の入った科は循環器であったが、誰もが胃カメラや気管支鏡、果てはポータブルのレントゲンの機械の動かしかたや血球カウントの方法まで、若い頃は何でもやらされた人たちばかりだった。

自分の受けてきた「総合的な」臨床研修とは何の事は無い、現役のベテラン医師はみな同じような成長のしかたをしていた。そうした何でもやったことのある(できるのとやったことがあるのとはぜんぜん違うのだが、それはまた別の話)ベテランがそこら中にいて初めて、専門領域のみ学習する「大学の」研修システムが成り立っていたわけだ。

現在ローテーション研修システムが導入されて、これでめでたしめでたしになるかといえばそんなことは無い。いろいろな科をローテーションすることで、断片的な知識を得る機会は間違いなく増えるはずなのだが、一方で「医学の全体像」みたいなやつを把握する機会は絶無になる。

じゃあ「全体」というものを教えればいいじゃないか、という議論が出てくるが、たぶんこれをカンファレンス型式で教えることは不可能で、全体を見ようと思ったら「全部自分でやる」しかない。それこそ、自分の責任でミスをして、患者を殺してトラブルを起こすところまで。

生きているヒヨコを一匹、ジューサーにかける。スイッチを入れて5分も回せば、たぶんジューサーの中には羽の混じったピンク色の気色悪い液体が出来上がっている。スイッチを入れる前とあととで、ジューサーの中身には変化は無い。では、ヒヨコと液体との間で、失われたものは何だろうか?
この答えが全体とか、構造とか、宗教家なら魂とか、ニューエイジ好きなら「ホロン」とか答えるものなのだろうが、いずれにしても出来上がった液体をいくら眺めても、そこから生きているヒヨコを想像するのは不可能だ。

ヒヨコをヒヨコだと把握するには、卵から飼いはじめて一緒に遊び、最終的にそれがニワトリになって死ぬまで付き合うしかない。

今のローテーション制度は、いうなれば「ヒヨコジュース」の一気飲みを強要させるようなもの、と批判したら言いすぎだろうか?