頑張らない選択肢が大学を滅ぼす

議論なんて下らない。
どうせ結果は最初から決まってる。

声の大きい人たちは、議論が強い。結局はいつも彼らの言いなりにしかならないし、かといって喧嘩をするのも大人気ない。勝ち目のない議論に参加して、あとから目をつけられるぐらいなら、黙っているほうがいい。

ただ黙っているだけの人間にも、状況に変化をおこす方法はある。「みんな」で何もしなければいい。

何かの行動をおこすためには、エネルギーがいる。声をあげる元気も無いのに、行動などおこせるはずも無い。それでも、「何もしない」ことはできる。一人が放棄したところで、代わりはいくらでもいる。でも、「みんな」で何かを放棄したら、それを守る側の連中はきっと困る。

みんなという共同体は、かつては幻想にしか過ぎなかった。

「みんな」がなにを考えているのかなんて、考えたって分らない。一人一人の声の大きさは、みんな違う。力の大きさが違う以上、全員参加の公平な意見の交換なんてありえない。意見が交換できなければ、物言わぬ人々の意見の総和がどんなものかなど、誰にもわからない。

現在は違う。匿名の意見交換の場がいくらでもある。

実世界では声を出す力のない人でも、匿名掲示板では平気で相手を罵倒できる。一人一人の立場は常に公平。そこには、「掲示板の参加者の総意」とでもいったものが出現する。

そんなものの意見を誰が信じるものかと、議論に強い人は言うかもしれない。しかし、匿名掲示板での声の総和こそは、かつて幻想でしかなかった「みんなの意見」に他ならない。

みんなの意見を信じて、それを行動をおこす基盤とするには、匿名掲示板の力はまだまだ弱い。

でも、それを基盤として、「行動をおこさない」動機とするには、十分強力だ。行動は、おこすよりもおこさないほうが、使う力は少なくて済む。

「がんばらない」という闘争戦略は、みんなでやると破壊的な力を持つ。少なくともその力は、大学当局になんらかのプレッシャーを与える程に、十分強力なものになってきている。

大学に戻る研修医が減っている。

単なる権威に対する対抗心。労働者としての研修医を「不当に」酷使する大学への反抗。旧来の医局制度への反発。大学病院が人気を落とす理由など、いくらでも考えつく。

しかしそんなものは今に始まったことではない。

病院の運営の本質とでもいうものが、施設ごとに決まっているものなのだとしたら、理不尽さこそが大学病院の本質だ。そもそも、大学で働くという行為を、損得勘定で考えようとするのが間違っている。

研修医というものは、そもそも大学に帰ってくるものなんだ。研究がしたい、臨床がやりたい、お金が欲しい、名誉が欲しい。そんなものはあとからつけた理由だ。「昔からそう決まっている」。研修医は、大学で医局に入り、医局の職員としてまた社会に出て行く。そう決まっている。

大学と「もの言わぬ研修医」との勝負など、大学当局が本気を出せば勝負はみえている。研修医がいくら束になろうが、大学に勝てるわけが無い。市中病院で常勤になったところで、そこで一生暮らせるわけが無い。

日本で医者をやるかぎり、大学に全くかかわり無く暮らしていくことなど不可能だ。かの学生紛争時代でさえ、大学に背を向けた医師のほとんどが、何らかの形で大学に帰ったり、また患者さんを大学病院に紹介したり、大学から患者さんを紹介されたりといった形で大学との「付き合い」を続けている。

学生紛争時代、当時学生だった人たちのパワーはすごかった。だがそれにも増して、大学という組織は頑丈だった。校舎を焼かれようが、キャンパスを封鎖されようが、受験がボイコットされようが、結局大学という組織はびくともしなかった。

大学というところは、世の中を変えてやろう、頑張ろうとする人たちのエネルギーをもらうことで存続していく。学生紛争時代、大学を倒そうとする人たちの情熱はすごかったけれど、その情熱すらも大学によって代謝され、大学を現在まで存続するための原動力となった。

大学病院も同様。大学病院を叩きのめそう、その権力を否定しようとする多くの民間病院組織は、情熱を燃やす。そのエネルギーを受けて、大学病院という場所は存続していく。大学病院は、変化をすることはあっても、大学自体が弱くなることなど全く無かった。

ここにきて、研修医が取った戦略は恐ろしい。

大学病院という場所に、依存はするけれど何も提供しない。組織を変えようとする力、変化をもたらそうとする力、大学という体制を維持しようとする力。とにかくそれがエネルギーでありさえすれば、大学というところは何でも代謝してきたけれど、今度の相手はなんのエネルギーも提供しない。こんな戦略は初めてだ。

年月を経て、大学という場所は強力になった代わりに燃費が悪くなった。ローテーション制度が施行されて2年、たかだかその程度の期間、研修医が「大学で頑張るの、やめました」と宣言しただけで、組織に相当なダメージが来ている。

この闘争戦略の原動力は、研修医の負け意識だ。

大学で頑張るという選択肢は負け。それ以外は勝ち。外病院でそこそこ収入をもらって、自由な時間が持てればもうそれで十分。べつに「頑張る」必要なんて、ないじゃないか。
経済的にそこそこを目指して、自由時間を得る。何も悪いことをしているわけじゃない。足らない分は、誰かが頑張ってくれるだろう。

それでもそれは医者として間違っている。

社会での「成功」というものに、無理やり平均値を作るならば、医師は医師免許を持った時点で、すでに「成功した」側の人間になってしまっている。

成功した側の人間には、夢を持って、未来の希望を作り出す義務がある。与えられた能力を使わず、セーフティーネットに寄りかかる生き方など許されない。

今の状況は、大学病院という医師の安全装置が崩れようとしている様子を、寝惚けたまなざしの研修医が遠巻きに見ている状態だ。本来は、その研修医こそが安全装置を必要とするはずなのに。

戦況は、物言わぬ研修医サイドの圧倒的勝利。なんといっても、彼らはほとんど闘争にエネルギーを使っていない。

大学のとるべき対策は簡単だ。

闘争の血の味を知らない奴等に、勝利の美酒を飲む権利なんかない。闘争のルールを変更する。彼ら「頑張らない」研修医の集団を、伝統的な闘争の場に引きずり出す。

かつて大学は、大人の集団だった。たとえ大学に反旗を翻した医者(筆者のような奴ら)にも、大学は常に安全を提供してきた。

チャレンジしたい奴らは、勝手にやればいい。もしチャレンジに疲れたら、いつでも大学の医者としてこき使ってやるから。
大学病院という場所は、闘争するべき敵であると同時に、大事なセーフティーネットだった。

今は違う。何があっても、「とりあえずそのとき大学にもぐりこんでしまえば大丈夫」という安心感が、研修医をして「頑張らない」選択肢を取らせている。

このセーフティーネットを外す。「成長は遅いが堅実な、大学ルートか。チャレンジできるが、失敗したらあとがない市中病院ルートか。」それぞれの研修医に選択を迫る。大学無くして、彼らに安住の地など無いことを思い出してもらう。

選択が嫌なら、戦うしかない。比較的安全な逃げ場は大学だけ。大学の居心地を良くするには、行動して変化をおこすしかない。変化を引き受ける代わり、こちらにはエネルギーを提供してもらう。

彼らの闘争の原動力になっている、「公平なみんなの意見」という得体の知れない怪物には、「アカデミズム」という名の反存在を打ち立てる。

大体、こうした得体の知れない共同体を最初に作ったグループは、大学だ。アカデミズムや大学自治といった言葉はいいかげん古臭くなったし、もはやその理想を信じる人などいないけれど、こいつをもう一度復活させる。大学の存続という共通の利益の下、各医局は一つになる。

地域の医療計画。市中病院への医師の配分。こうした政治的な決着が必要な分野は、すべて大学が決定する。全く持って簡単な話だ。

「言う事聞けないなら、医師全部引き上げますけど何か?」
大学存亡の危機の前には、医局同士の利害など些細な問題だ。

いままで政治に口を挟んでこなかったのは、できなかったからではなく面倒だったから。大学が本気を出せば、本当は何でもできる。医師にとっての大学病院とは、すなわち世界そのものだ。世界に不満があるならば、世界を変化させるしかない。やる気のある人は、どうぞ大学病院へ。

闘争がおきれば、大学という組織はまた復活する。もちろん大学が同じ形で存続することはありえない。それでも、変化こそは大学の本質だ。大事なのは、「大学的なもの」が存続することであって、現状を保存することじゃない。

大学当局が本気を出せば、大学はいとも簡単に覇権を握るだろう。その過程には、かつての大学紛争のように、きっと闘争が発生する。

その時が来たら、自分は大学を倒す側に回り、体制を潰す戦いをしたい。闘争に参加できるなら、どちらを支持するかなんてどうでもいい。どうせ戦うならば、反体制側のほうが、絶対にかっこいいし、面白い。

ああ楽しいとても楽しい。
闘争だよ、考えてもみたまえ君。
きっと血みどろの闘争になるに違いない。
素敵だろう?闘争、闘争だよ。
60年に両親が知り合い、70年に自分が生まれ、「闘争」という面白いイベントの話を子供の頃から聞かされ、闘争の発生にあこがれながら、自分にはついに闘争に参加する機会なんか回ってこなかった。

今ならまだ間に合う。

全ての医師がなんらかの決断を迫られ、いやでも巻き込まれていく闘争。

患者のための名の下に
目の前の患者を放り出し
かつて仲間だった医師同士
純粋な暴力の発露の日々

そんなときが来るのが今から楽しみでしょうがない。

闘争を望む理由?
平和は退屈だからだ。それで十分だろう。