自然というエンジニアのやりかた

>**なぜコードを最適化するのですか?**
  
>**「……そこにコードがあるから。」**

##エンジニアは常に最適な設計を目指す
エンジニアは、たとえ見返りが無くても最適解を目指す。このモチベーションこそが、人間社会をここまで繁栄させた原動力だ。

一方、自然界の生き物を作ってきた「エンジニア」は、そう考えない。

自然界は、とりあえず、他の競争者よりも少しだけ優れたものを作って送り出し、さっさとシェアの拡大に走る**。

人間のエンジニアというのは誠実だ。彼らが設計したものは、たいていの場合に信頼できるもので、どんな状況においても優れた性能を発揮する。社会に送り出された製品も、日夜改良を続けられ、バージョンアップされる。

自然はそんなことはしない。作りっぱなしで、進化の袋小路に入って絶滅する生物なんてゴロゴロいる。作り出す製品も「**適当**」だから、病気になる。人間の体がよく出来ているなんて、正常な人しか見ていない人の戯言だ。患者さんを診察していて「何でこんな余計な機能、つけたんだろう?」などと首をひねることは、医者をやっていれば日常茶飯事だ。

完璧主義者の作る製品というのは、どんな状況でも最適な性能が保証できるまでは、市場に出回ってこない。このため、実際に製品が出来上がってくるのはしばしば遅れる。それでも、人間世界であれば、よりすぐれた性能というのは、後発品の不利を補って余りある。

##自然界と人間社会との違い

自然界で優れているものというのは、その環境**局所**での適応度に優れているということだ。製品が、世界で一番優れた品質である必要は無いし、また自然は世界一を目指さない。

細かく見れば、環境というのは、一歩でも動いた時点で全く異なることは珍しくない。

全ての環境で常に最適な適応を果たす生き物はいない。環境が変われば、その環境を支配する生き物が違うのは、ごく「自然」なことだ。

自然は常に変化する。一方で人間社会は変化を好まない。

もちろん人間社会も変化をするが、たとえ少々環境が変わっても、たとえばその会社や設計者に対する信頼性、広告技術や値段など、製品のシェアを左右する要素は山ほどある。

人間は環境の変化を嫌う。経済の変化や新しい技術、法律の改正といった「環境の変化」が身の回りに生じても、こうした環境以外の価値観のパラメーターは、劇的な変化を抑制する方向に働く。

その点、自然界の競争はシビアだ。環境は刻一刻と変わる。ある環境で、たとえある動物が主流を占めたとしても、**「その動物が主役になった」という事実がまた環境を変える**。次の日には、その環境の覇者には天敵が出現したり、その動物に寄生する寄生虫が跋扈したりして、覇者の地位は他の生物にとって代わられる。

新しい環境には、それが技術的なものであれ、自然の力でなされたものであれ、まずは**局所的に最適なもの**が、とりあえずの主流を占める。

たとえ世の中にもっと優れた生き物がいたとしても、競争相手がいない隙に、その環境内に普及して、確固たる地位を占めてしまえば、「シェアを取った」という強みが生じる。劣った生物は、よりすぐれた種に対してこの武器で対抗する。

環境内で独占的な地位を占めるということは、もしかしたら欠点になるかもしれないが、うまくいけば、技術的により優れた競争相手が現れたとしても、十分対等に渡り合えるようになるかもしれない。

##最適化のサイクルは弱点も作る
自然というゲームの勝者というのは、必ずしも絶対的基準で最高の存在ではない。

例えば、人間の手のかかっていない自然界では、抗生物質に耐性を持つ、多剤耐性菌というのは成長が遅く、野生の菌に比べれば必ずしも「最適」なものではない。

細菌の強い、弱いという基準の本質は、分裂速度が速いか遅いかが全てだ。

過去数千年にわたり、細菌はより速い分裂速度を目指し、自分の代謝系を変化させてきた。そうした進化の結果、非常な勢いで増殖できるようになったのが、現在の野生の細菌だ。

環境内で独占的な地位を持つようになった細菌は、非常に洗練された代謝システムを持ち、すごい勢いで増殖する。一方、その経路は「最適化」されているので、何の遊びも迂回路も無い。このため、野生の細菌、たとえば肺炎球菌には、ペニシリンなどの抗生物質が面白いように効く。

一方、薬物に耐性を持った細菌というのは、代謝経路が野性株のものとは微妙に異なっていたり、薬物の代謝や排泄の経路を持っていたりする。これは、人間の目から見ると「優れている」ように見えるけれど、自然界での分裂競争では、劣っている。

例えば、F1マシンの中には、バッテリーも、発電機も搭載されていない。エンジンをかけるには、外からエンジンを回してやらないといけない。レース中、一度でもエンジンが止まれば、F1マシンはもはや自力で動くことすら出来ない。それでも、F1マシンというのは地上最速の車であり、だれもそれを見て「劣っている」とはいわないだろう。

薬剤耐性菌の場合も同様で、いろいろな代謝回路を持っているというのは、自然界というサーキットでの分裂競争では、余計なものになりこそすれ、有利になる部分は全く無い。

ところが、こうした「**余計な部品**」が、病院という特殊な環境では武器になる。分裂の早い細菌、代謝経路に何の迂回路も持っていない、「遊び」の少ない細菌は、真っ先に医者に殺される。抗生物質による選択圧が働く環境では、こうした薬剤耐性という性質は、有利に働く。

F1グランプリのルールが毎回変わったら、参加チームからは抗議が殺到するだろう。ところが、自然界は、こうした**ルール改定**を平気でやる。文句をいってもムダだ。このため、生き物は、自分達の「種」の**多様性を高める**ことで、環境の変化に対抗しようとする。

一つのルールに最適化するということは、その競争に必要なもの以外を切り捨てるということだ。切り捨てて身軽になった体は競争に有利になる。ところが、最適化を進めると、今度は、多様性、ルールが変わったときの対応能力がなくなっていく。

ルールが変わらない前提ならば、「最適化」という行為は見返りを保証してくれる。一方、ルールが将来変更されるのが前提ならば、最適化をはかる力で、ほかのことを考えたほうがいいのかもしれない。

##人という種の多様性
自然のルールは変わる。人間ですら自然の気まぐれからは無関係ではいられない。人間もまた、種の中に、多様性を持たせることで不測の事態に対処する。

鎌形赤血球症という病気がある。重篤な溶血性貧血をおこす疾患で、DNAの異常が原因で生じる。日本人にはまれ。死亡する例もあるため、生きていく上では、あるいは人間という製品の「性能」という意味では、不利な人たちだ。

ところが、このDNAを持っている人たちは、マラリアに対して自然耐性を持っている。このため、流行地域では、この病気のDNAの持ち主は、非常に有利な立場になりうる。実際、熱帯地方には、この病気の患者さんが多い。

同様に、エイズについても、現在自然耐性を持つ人がいることが分かってきている。

自然界で生き延びるのに必要なのは、**局所的な長所がある**こと、この一点のみだ。絶対的に優れている必要はなく、とりあえずまわりよりも少しだけ優れていれば、それで十分だ。マラリアに対する耐性、エイズに対する耐性を持った人間は、絶対性能でいったら多くの人間よりも劣っている。それでも、こうした人たちは、それぞれの病気の流行地域では、絶対的な長所を持っている。

もちろん、より大きな環境スケール、長い時間軸では、絶対的な性能がものをいうかもしれない。それでも、その効果は局所的なものよりはずっと小さい。

##努力して成長するのは生物として正しいのか?
生きていく上で、リスクはできれば減らしたい。努力するだけで報われるならば、こんなに楽なことはない。

>どの世界においても若い人たちが嫌になる気持ちは理解できる。周りの全員が同じことをやろうとしたら、努力が報われる確率は低くなってしまう。今の時代の大変なところだ。
>何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている。
>[Passion For The Future: 決断力](http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003627.html)より羽生名人のことば

>情報化社会では、個人の才能はすぐに全国、全世界の統一ランキングのどこかに位置づけられてしまう。それはやる気を削ぐ。
>かつては見える世界が適度に小さかったので、その中で上り詰めることができ、その後で次の世界・目標が見えるようになっていた。
>[HSKI's: 世界を分割すれば目標が立てやすい](http://hski.air-nifty.com/weblog/2005/07/post_deaf.html)より引用

「**努力した人は必ず報われる**」。人間社会では、「絶対的に性能がいいものが、最後は勝つ」とまだ多くの人が信じている。成績のいい奴、走るのが速い奴、絶対性能の高い人物は賞賛される。コツコツと努力して、地道に自分を最適化させたものは、最終的には必ず報われるはず。学校でもそう教えられた。

努力したら報われるという信念は、数億年来の悪夢のような生存競争を勝ち抜いてきた人類の、「もうこれ以上の競争はいやだ」という悲鳴のようなものかもしれない。生存競争というルールには、努力という概念は存在しない。勝敗を左右するのは「引きの強さ」のみ。

努力をするという行為は、生き物として本当に正しいのだろうか?

##自然界は努力をあざ笑う

コツコツ努力する生き物といったらセミの幼虫だが、あんな生存戦略をとったものだから絶滅しつつある。

地底に長い間いるうちに、地上の環境は変化する。幼虫の、何年にもわたる努力を迎えてくれるはずの世界はアスファルトで固まり、蝉の努力は報われない。

自然はセミを救うだろうか。そんなことはしない。自然はセミを切り捨てる。自然の神様に意思があったとしても、アスファルトを貫く強い幼虫に進化させるよりは、ゴキブリが樹液を吸う習慣を身につけるほうが圧倒的に簡単だ。セミの居場所は、他の生物に取って代わられる。

自然の製品には、バージョンアップの概念はない。「樹液を吸う昆虫」というニッチは、セミがいなくなれば一匹分の空白ができる。自然は空白を嫌うが、この空白には、ほかの生き物はいくらでもいる。蝉の抜けた空白はすぐに埋められる。セミのなく声は聞こえなくなるかもしれないが、樹液を出す木は相変わらず昆虫でにぎわうだろう。

##競争は多様なルールを生む
自然界の生き物は、環境が変わったら、とにかくすばやく拡大して、成長することだけを考えている。大事なのはスピードだ。まごついていると、目の前で環境はどんどん姿を変える。

>たとえば日当たりのいい空き地が出来れば、まずはその環境に最適化した雑草や低木が生い茂る。このことは環境を変える。動物が増え、低木は食べられる。
>今度はこの環境に最適化した大きな木が環境を代表する種となり、さらに森林が発達するにつれて、下層部に到達する日光の量は減少し、光条件が悪い状況でも成長可能で、他の植物よりも成長する力の強い種が幅を利かせていく。

環境は刻一刻と変わる。環境が変わる前に幅をきかせていた種は、自分が成長するにふさわしい場所を求めて去っていき、そこにできた空白に、また新たな種が覇権を握る。

どの種も「コツコツと努力する」ことなどしない。そんな時間があったらまず自分が有利な環境を探し、そこで増殖することを考える。何かの種がそこに適応することで、その行為自体がその環境を変え、変わった環境に最適化した種がまたニッチを占めるように適応していく。

進化を通じて、ある特定の生物集団がその場所に適応するほど、その場所での競争は激しくなる。競争が激しくなった結果、その種にとっての環境は、居心地が悪くなる。適応度は低下してしまい、他の生息場所のほうがより好ましくなる場合もある。

競争を嫌った一派は他の生息場所を求め、同時に自分をそのフロンティアに向けて最適化させる。

新しい分野を開拓して利益を得ようとする競争の結果、環境には多様性が現れる。競争は、多様性を下げるのではなく、むしろ上昇させる。

競争が激しくなれば、それだけ世界の多様性は増す。一方、競争に勝つということは、「競争に勝つための機能」以外の余計なものを捨てることだ。競争に特化した生物というのは、競争の果てに環境が変わると、もうそれに対処するだけの「遊び」が残っていない可能性がある。

##「いい医師になる」努力は正しい行為か?
努力するというのは、とても純粋な行為だ。純粋なあまり、その努力はしばしば「余計なもの」を削ぎ落としてしまう。いい医師になる努力は、その人が目指す環境に、自分をを最適化してくれる代わりに、外乱に対するもろさを増してしまうかもしれない。

努力して、他の人には及びもつかない技術を得、病院という社会の中で独占的な地位を占めれば、名声は上がる。一方、独占的な技術を迂回する手技の発達、ものの価値観そのものの変化というものは、競争に打ち勝った医師の努力を無に帰してしまうかもしれない。

##競争に勝つことが必ずしも勝利することにつながらなくなる時代
医師の世界は競争社会だ。誰もが何かの分野で日本一、世界一を目指して競争している。一番になりたいというのは、受験競争世代の人間の本能だ。だから日本の医療レベルは、そこそこ高い。

日本一を目指すためには、有名な施設での厳しいトレーニング、長い期間の研鑚、そして厳しい競争を勝ち抜かなければならない。そうした研鑚の果てにまっているのは、必ずしも栄光に包まれた世界ではないかもしれない。

たとえば、激しい競争を勝ち抜いて得た技能が、何らかの高度な機械に依存しているとき、たとえば放射線治療の専門医や高度な機械が必要な手術手技などは、そもそもその機械がある施設に行かないと、自分の持ち味が生かせない。

高度な機械を置いている病院は少ない。高度な技量を備えた医者は、その機械への依存性故に、技能が安く査定されたり、最悪機械がない施設では、自分の専門技能が全く発揮できないということが生じうる。

どんな分野でも、スタープレーヤーになるのはとても格好がいい。スター選手になった先生方はいい人たちばかりで、研修医は誰もがそうした先生方を目標に、将来の夢を見る。

スターはかっこいい。でも、その「**枠**」は一人分しかない。

スター以外の医師は、その他大勢だ。努力の量は、スターと2番手とは、そんなに大差はないかもしれない。それでも、「**その他**」にに認定された専門家は、安く査定されたり、自分で思っていたほどには努力が評価されなかったりする。

努力という生存戦略にすがる種は、自然界では滅亡するものと相場が決まっている。

多様性の時代、努力が評価されない時代。時代が変わるということは、生存競争のルールがかわるということだ。

>組織が重要だったのは,どの組織にいたかによって手にできる情報やリテラシが違っていた時代,相手の個別の記事にアクセスするコストが充分に高く,第三者による権威付けが必要だった時代の産物に過ぎない.
>これからは経歴よりも何を書き,何を行い,ひとからどう評価されているかに直接アクセスされ,それによって人生の可能性が大きく変わってくる時代に入った.
>[さまざまな憂鬱とわたし](http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20050626/p1)より引用

ルールは変わる。大きな病院で働いていた。○○先生の弟子。こうした「箔」を何年もかけてとっても、それをとったときにはその価値がどうなっているのか、誰にも予想できない。

ルールがかわるならば、生存戦略をかえなければならない。過去の戦略にしがみついた奴は、この世界から滅ぶしかない。

「努力が報われる」という不自然な環境への最適化を進めるほど、その環境が変わったときの影響は大きい。長い期間、長すぎる期間の努力は、しばしば環境の激変という悲劇的な報いを受ける。

技術を極めて、あとから満を持してやってきたところで、そこに何も残っていなければそれまでだ。