消費のスピードが速まる

どちらかがおこれば、世界のエネルギーの量は減る。世界の局所ごとに、そのエネルギーの大きな場所、小さな場所の不均一性が増してくると、場所場所で生存競争のルールは変わってくる。

生き延びるための競争は激しくなる。生存競争は、個体としての性能以外に、「その場所」にいかに適応しているか、地の利をいかに生かせるかという要素が効いてくる。
大きな世界に特化した生き物は、その地位を維持するのが難しくなる。

##トンネルの先に光はあるのか
専門医になるためには、長い修行が必要になる。それでも、現在はまだ、
「**長い修行の後には専門家として活躍できる**」ということが、ある程度は保証されている。

世界は変わらない、「大きな世界」はいつまでも続くという保証がないと、
誰も専門家への道なんか怖くて歩めない。専門医の繁栄が存続するには、
環境の安定性というものは欠かせない。

現在はインターネットの時代。クリック一つで世界中から専門医を検索できる時代だ。

世界は大きく不変なのか?多分逆だ。経済的には、現在は過去以上に繁栄している。
ところが、世界の流れはますます速くなっている。大量に生み出される世界のエネルギーは
一瞬で消費される。世界はますます小さく、不均一な方向に向かっている。

明日の世界が今日と同じだなんて、今では誰も信じていない。
ましてや、数年の厳しい修行の後にも、その技能が確実に役に立つなど、信じているのは
医者ぐらいだ。

変化する世界を前提にすると、「専門化する」という行為は危険なものだ。

専門家は、大きな病院にいて、他の誰もが知らない知識を操り、特殊な機械を操作して、
一般内科には真似の出来ない奇跡を起こす。

ところが、その専門性が特定の機械依存、施設依存の専門医というのは、
環境全体の生産性が低くなってきて、環境の多様性が増してくると、
その専門性がかえって不利に働く。

世界に十分なエネルギーがあるとき、専門性を持った医師は大きな病院からのオファーが殺到する。
その人の専門性を最大限に発揮できるよう、病院側も努力する。高価な機械が搬入され、
そこには多くの患者さんが集まる。

ところが、世界が広くない場合、世界の生産性がそれほど高くない場合、専門家を招くということは、
病院にとってはリスクの高い決断になる。自分の病院にわざわざ専門家を招かなくても、
少し離れたところに同じ施設がある。その人が来て、本当に収益が増えるのか、その人の
技能は、何年経っても「専門的」でありつづけるのか、小さくなった世界では、誰も予想できない。

同じ専門家でも、トッププレーヤーは、どんな時代になっても最強でありつづける。
世界の大きさの影響を受けるのは、2番手以降だ。

世界が小さくなってくると、**トッププレーヤー**以外は、ナンバー2から駆け出しの専門医まで、
同じ条件での競争を強いられる。同じ専門家同士、売りにする技能は同じ。専門家を迎えられる病院が
少なくなってくると、そこには競争が生じる。腕で勝てない医師は、当然「価格の安さ」を売りに
する。専門家同士の競争は、しばしば価格競争の悪循環に陥る。

もちろん、「中途半端な何でも屋」の給料というのはもともと安い。それでも、自分に投資した時間が
少なければ、長い目で見た総収入、自分の生活に対する満足度みたいなものは、そこそこ高い。

価格競争に陥った専門医は悲惨だ。長い修行時代、ひどい条件を我慢して、その先の栄光を夢見て、
待っていたのは安売り競争。もともと専門医を志す人の「幸せのハードル」は高い。
下から見れば十分とも思える条件でも、専門医は「負け」と感じるかもしれない。

##専門技能は消費される
それでも、何の技能も持っていないよりは、何かの専門性を持っていたほうが、
自分にとっての「売り」が増えるかもしれない。とくに、その専門技能が人気があって、
患者さんも多いならば。

ところが、小さな世界では、すばらしい技能というのはありがたがられず、消費される。

ある技能に「価値がある」と認められれば、そこにはたちまち競合者が参入する。
競争は激化し、唯一の技術は消費され、「**改良**」され、その世界には
「第一人者」が乱立する。

世界が大きかった頃、コミュニケーションのスピードが今ほど早くなかった頃、
新しい技能を学ぶには時間がかかり、それを知っていることはその人にとっての「売り」になり得た。

例えばお産の鉗子分娩。鉗子を使ってお産を介助する技術は、ヨーロッパのある産科医一族の
秘中の秘だった。この技術を知っているというだけで、この一族は2世代に渡り、その地域の産科
の権威者でいられた。今では、新しい技術が新しくいられるのは、よくもって3日といったところだ。

技術は、それが技術である以上、伝達可能でコピーが可能になる。そのコピーはあるいは
劣化コピー海賊版なのかもしれない。それでも、患者さんからは、何がオリジナルで、
何が優れているのかなんて、絶対わからない。

専門技術でなくても同じだ。医者同士だって、科が違えばどの医師が「優れて」いるのか、
よほど親しくならなければ分からない。

よい専門技術は、必ず消費され、いつかは「専門」でなくなる。専門家が専門家でいられる期間は、
近年ますます短くなっている。

##最後は本人の度量の問題
それでも、専門医というのは医者という世界を代表する人たちだ。なんだかんだ言っても、
やはり専門家というのはかっこいい。学会で皆の尊敬を集めるのは、いつだって、何かの分野の
専門家だ。

専門家が専門家でいられる期間は短く、またその競争は激しい。

専門医は、その専門分化が進めば進むほど、その人の幸福のハードルは高くなり、一方でその競争は激しく、競争から去るときの選択の幅はますます狭くなる。

医療の世界というパイは大きくなっているのか、あるいは縮んでいるのか、本当のところは分からない。

大きなスケールでの世界の動きというのは、誰にも予想できない。たとえば地球の温暖化にしても、ある学者は、たかだかここ数千年の話だと一笑に付すし、一方では「地球はこのまま暖まる」と深刻に受け止める意見もある。地球が暖まるのか冷めるのか、まだ分からない。

世界の趨勢というのは、短期的な予想はついても、長期的な動きについては情報が少なすぎて分からない。また、どんな微細な変化も、長期的に多大な影響を与える可能性があり、話をややこしくする。

それでも世界は小さくなると思う。いちどできた人のつながりは、必ず世界を小さくする。弱い繋がりひとつできただけで、世界の大きさというのは非常な影響を受けるのだから。コミュニケーションの技術が発達するにつれ、世界はどんどん小さくなっているように見える。

専門医を目指すということは、自分が最適化する世界観を「大きいもの」だと設定することだ。
自分が活躍するにふさわしい世界を、どこまで大きいと認識できるのか、この大きさというのが、
要はその人の人間の大きさなのだと思う。

自分は小さな世界への最適化を志す。