その後ろの結びが1つなら「山」、2つなら「川」…

こんなぐあいに、結び目の大きさや数といった情報で短い文章を関連付け、話の流れは縄の長さや結び目の間隔で表現しているらしい。

テープレコーダーのようなものだが、大きな違いがある。縄自体には何の情報も乗っていないという部分だ。

どんなに巧妙に結ばれていようと、縄は縄。物語の情報の主体は、語り部の**おばば**の莫大な情報の集積だ。文章のプロットは、どの縄を持つのかにより全く異なってくる。

文章の内容と、その表現の方法は、本質的には分割可能なものだと思う。文章の内容の見せ方は、昔の「結び縄」から現在の「文字」「漫画」、さらに将来的にはPCによる時間軸管理に至るまで、その時代の技術レベルに応じた様々な方法がとられるべきだ。

小説という表現技法は衰退する。ちょうど、白黒映画がカラー映画にとって変わられたように。それでも、文章による表現というメディアの重要性は、そのまま残る。

##文章メディアは何を目指すべきか
映像表現というメディアは、前述したように意外に不自由だ。

舞台演劇や朗読、映画といった話し言葉のメディアは、時間設定の自由度が非常に狭い。
話し言葉は、そのペースが実時間に左右される。どんなに速くしゃべっても、話し言葉で伝えられる文章量というのは、1分間にせいぜい500字といったところだ。普通のペースなら、もっと少ない。

文字情報であれば、大体話しことばの2倍のペースで読める。斜め読みをすればもっと速い。

映像メディアは、たとえば主人公が60分話した内容を聞くためには、60分の時間がかかる。文章メディアであれば、物語の中での0.1秒の間には、無限に近い情報を詰め込める。「間」のようなゆっくりとした時間の流れを作らなくてもいいのなら、文章メディアというものは、時間軸をいくらでも速く設定できる。

いい小説には2種類ある。