さらっと読みしたいときは、エッセイモード。

状況に応じて演出手法を選択可能な文章というものは作れないのだろうか。

思わせぶりな前振りをなくし、文章を飾ることを止め、同じ単語を繰り返して伏線を張るのを止める。文章の修辞や、レトリックといった修飾手段は、フォントの大きさや濃さ、あるいはまったく別の表現手法を導入することで、今までの文章メディアのあり方を進化させることはできるだろうか?

現在の技術の進歩を取り込んだ、映像メディアの1つの到達点にあるのが StarWars の最新作だ。内容の是非は脇に置くとして、あの映像はもはや見る絶叫マシンの領域に達している。同じ時間内に、とにかくより多くの情報、より多くの刺激を詰め込めばああなる。視覚と聴覚を通して入ってくる情報量はもう限界に近い。

ジョージ・ルーカスは、次世代の映画には、嗅覚とか触覚とか、新しい感覚の導入を考えているという。映画は進化して、いよいよ遊園地のアトラクションに近づいている。

文章の進化の方向は逆だ。いかに無駄を削るか。文字というメディアを通じて、どれだけ多くの情報を、短い文章に詰め込むか。

構造や修飾というものから完全に自由になった文章メディアというのは、やはり「本」という型式を捨てるような気がする。その先に現れる文章表現というのはどんな形をしているのだろう。