同じリスクと効果を維持しつつ、どこまで治療を合理化できるのか

今よりもうまいやりかた。無駄のない方法論。そうしたものは、
日本中の臨床家が常に求めつづけています。「**カイゼン**」への欲求というのは、
なにもトヨタ自動車の社員の特権ではなく、たぶん日本中の技術者の本能みたいなものです。

発見できた「うまいやりかた」を発表するのもまた面白い。

表ページ。いろいろ書いてあるけれど、要は個人の自慢話の集積です。
これをやったらうまくいった。うちの病院には、こんなすごい方法が伝わっている。etc。

##枯れた技術と個人の経験

古いやりかた**を踏襲するのが好きです。

確実なのが証明された方法。先人の知恵の集積。
新しい治療手技を試す時、真っ先に調べることは、周囲にそれをやったことのある人がいないかどうか。

一人の人間の持っている情報量というのは、NEJMの巻頭論文をも凌駕します。
個人の経験。なによりも、その治療が「あり」なのかどうか。経験者の漠然とした感覚という奴は、
どんなランダマイズトトライアルよりも説得力があると信じています。

新しい「うまいやりかた」というのは、古くからの方法論の組み合わせです。個々のパーツには何の
新奇性もありません。だから日常の仕事の中でも試せるし、また安心して発信できます。

##新しくないと論文にならない
論文は違います。

>残念なことに、美しいものは論文になりやすいとは限らない。
>第一に、研究は独創的でなければならない--- そして、博士論文を書いた経験のある人なら誰もが知っているように、あなたが処女地を開拓していることを保証する一番良い方法は、誰もやりたがらないような場所へ向かうことだ。
>第二に、研究にはたっぷりとした量がなければならない--- そして、妙ちきりんなシステムであるほど、たくさんの論文が書ける。そいつを動かすために乗り越えなければならなかったいろんな障害について書けるからね。
>論文の数を増やす最良の方法は、間違った仮定から出発することだ。 AI研究の多くはこの規則の良い例だ。知識が、抽象概念を引数に取る述語論理式のリストで表現できる、と仮定して始めれば、それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。リッキー・リカルドが言ったように、「ルーシー、君はたくさん説明することがあるね」ってなわけだ。

>何か美しいものを創るということは、しばしば既にあるものに微妙な改良を加えたり、既にある考えを少しだけ新しい方法で組み合わせたりすることによってなされる。この種の仕事を研究論文にするのはとても難しい。

>[Hackers and Painters](http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/hp-j.html)より引用。


誰もがやっていること、あるいは誰かがやったことがあることだけでは、論文にはなりません。

##Neuesは勇気ある者に降りてくる
人体というやつは、このところ何万年もまえから変わっていません。

医学というものは、極めて安定したシステムである人体という系が、何らかの「想定外」の出来事に
遭遇したとき、大いに発展します。病気やけが。貧困や差別。戦争。こうしたイベントは、
人体というシステムを大いに揺さぶります。システムを理解するには、それが揺れたときに
じっくりと観察するのが一番です。

医学の方法論というのは、人体システムが揺れたときにどう対応したらうまくいったのか、
そうした経験の集積です。古い方法を踏襲すれば、大体予想どおりの展開が待っています。
予想できることは、確実だけれど発見はありません。

リスクをとる勇気のない奴には、

発見の機会など巡って来ない**のです。

問題なのは、他の科学の場合、リスクをとる人間は研究者自身なのですが、
医学の場合はそれに患者も加わるって
ことです。患者さんのとるリスクは、採血量が2ml程度増えるとか、
CTをもう1回だけ余計に撮るとかいった
ものから始まって、ちょっと言えないすごいことまで、様々です。

ただでさえ医者の肩身が狭くなった昨今、保身のためには余計なことはしたくない、というのは
臨床オンリーで生きてきた奴の本音です。

##論文を書くということ
論文執筆をはじめとした研究活動に興味を持てるかどうかは、多分に後天的なものです。

論文を書くためには、データを集めなくてはなりません。

研修医時代。その生活サイクルの中に、「論文のためにデータを集める」というモジュールが
組み込まれていないと、多分その研修医は論文執筆に興味を持ちません。

民間大手の忙しい病院には、「論文を書く」という文化が欠落していることがよくあります(たぶん)。

お前の性格を人のせいにするな、という叱責が聞こえてきそうですが…。

忙しい病院では、みんな「うまいやりかた」を日々探しています。
どうやったら死ぬ病気を見逃さずに済むのか。全員入院、病歴聴取だけで1時間かけていいなら
誰だって何とかなります。同じことを外来で3分でやろうと思ったら、頭を使う必要があります。

臨床をやりながらデータを取る先生、論文を書く先生に対するやっかみや反感といった感情は、
持っていません。一応。私達だって論文がないと勉強できませんし、論文を書く人たちが
いるからこそ医学というのは前に進みます。

それでも、もう少しうまいやりかたはないのかな、とは思ってしまいます。論文を書くのに要する
エネルギーはあまりにも多く、その論文が何かの役に立つ可能性はあまりにも少ない。

>論文は小数の専門家にしか読まれない。ごく一部の論文は世の中に大きな影響を与えるが、
残りの大半はほとんど影響を与えない。正確に言えば、博士号の取得であるとか、
大学内の昇進・雇用の維持であるとか、学会の存続であるとか、そういうことには役立つ。
>一例として、情報処理学会の論文誌に論文を掲載するには別刷料という名目で掲載料を
支払わなければならないが、これは読者よりも載せる人の利益の方が大きいからだろう。
>[いやなブログ: ポール・グラハム論法](http://namazu.org/~satoru/blog/archives/000021.html)より引用

頭のいい医師はたくさんいます。
アカデミックな某科の医師など、私の実力などはるかに上回っています。
一般内科は、しょせん専門医の敵ではありません。専門があって、マンパワーがある
連中は無敵です。

それでも、彼らはしばしば、その力を貸してくれません。