日常業務からいかに無駄を省くかという一点に血道を上げてきた人。

両者には接点がありません。例えば、生きた魚を捌いたことのある人と、
魚といったら魚屋の切り身しか見たことのない子供みたいな関係です。喧嘩にすらなりません。

「魚は本当は生きている」という知識は、知らなければ知らないで、何とかなります。
日本に住んでいて、お金があれば、たぶん困りません。実物を見たら驚くでしょうが。

同じ知識でも、例えば「**車輪**」という概念を知らない人は、人生大いに損をしています。

車輪があるから車は走るし、重いものも運べます。これを知らなかったら、コロしかなかった
ピラミッド文明時代に逆戻りです。

では、「**論文を書く**」という概念は、医者にとってはどんな価値を持つものなのか。

「魚は生きている」という程度の価値なのでしょうか?それとも「車輪」の概念ぐらい、
知らないと致命的なものなのでしょうか?

医者10年やっていて、今のところそんなに困っていません。論文を書いている人も、
10年目までは同意見です。そんなに困らない。

問題なのは、そこから先の話。

20年目。30年目。臨床だけやってきた人は、いざ振り向いたとき、自分が後に残したものが
何も形になっていないことに愕然とするといいます。論文を書いてきた人は、
「論文」という形が残る。

>「今から習慣にしておかないと、後になってから悲惨だよ。」

アカデミックな病院が研修医をリクルートするときの殺し文句です。

このあたりがどこまで正しいのか。私には全く評価できません。困ってないし、今はとりあえず
結構楽しいし、20年目になっているわけでもないし。

自分が将来どうなっているのか。何のビジョンもなければ、展望もありません。
なるようにしかならないでしょうし、何よりも「**決まっている未来**」ぐらい、つまらないものは
ないと思っていますし。

##先の見えないことの楽しさ
アカデミズムを放っぽって来た人を知っています。

某関東のやんごとなき大学の出身の方で、業績を上げて某国立大学の教授に内定していたそうです。

あるときの座長講演。専門的な内容なので、聴衆はみんな、理学部出身の人ばかり。学生の頃から
試験管を振ってきている連中。

>立場が上なのは自分。でも、その分野での頭のよさは、彼らの方が上。

そんなことを考えているうちにアカデミズムが空しくなり、私が飛ばされていた僻地の病院に
就職してこられました。

一緒に飲みながらそんな話を聞き、笑いながら「**今すごく後悔している**」と言っておられたのを覚えています。今ではそこも辞め、南の島の診療所で内科医をしておられるはず。
とっても投げやりな選択をする、とてもかっこいい方です。

自分が研修を受けた病院の先生方も、みんなめちゃくちゃです。