「あのバカ使えね」

どこの病院にいっても、院長級の医師というのは研修医の陰口のターゲットだ。
本当は、そんなわけが無い。相手は専門を極めたベテランなんだから。
でも、病院長が手術に入ったの、3年前が最後なのも事実。

賞賛が無いままに仕事を続けるのはいやだ。

満足感というものに「絶対」はない。だから21世紀になっても宗教が残る。

価値というのは相対的なものだ。
自分がやってきたこと、勉強して来たこと。
他人から点数を付けられるのには吐き気がするけれど、誰かから査定されない
限り、自分ではその価値を見極められないのもまた事実だ。

専門性を極めるという志向には矛盾がある。

自分が今いる山の頂点を高くするためには、「底辺」の大きさをより長くする必要がある。
このためには、弟子を増やさなければならない。
同じ専門性を持った人間が増えれば、それだけ仕事が分担できるし、それは結局
お客さんのためにもなる。

ところが、多くの弟子を作ったところで、山を構成する「土砂」の量、病気の数は変わらない。
後進が育つと、山の底辺は大きくなる。この結果、山は四方に引っ張られ、
山の高さはどんどん低くなる。専門家を頂点とした「山」は、気がついたら「丘」に、
技術が極められ、それを習得するのが当たり前になってしまうと、
専門家はもはや専門家ですら無くなってしまう。

たとえば麻酔科。昔は極めて特殊な技術を要した専門家集団の技術は改良され、
簡単な手術であれば医者で無くても麻酔がかけられるようになった。

本当は、「万が一」の時には本物の麻酔科医でないと対処が不可能で、そのために
専門医がいるのだが、万が一は本当に万が一にしかおこらない。
「万が一」が「千が一」ぐらいだった頃を知っている人が引退してしまうと、
今度は「万が一」を見たことの無い専門家が登場する。

本物の急変を見たことの無い人を専門家と呼んでもいいのか。
この人は、本当に「万が一」がおきたらそれを乗り切れるのか。誰にも分からない。

##即戦力志向というやりかた
本当の専門家になるための条件は2つ。専門家としての技量と知識を持っていることと、
「万が一」の状況を経験して、乗り切ったことがあること。

技術を持っている人は増えても、急変の現場を乗り切った経験を持つ人は減っている。

こういった方法とは逆に、技術や知識を習得することをしないで、
「万が一」の経験ばかり集積するやり方というものは「なし」だろうか?

本当は、1回経験したぐらいでは全然駄目で、専門領域の急変を何度も見ないと「みた」とは
言えないのだが、それでも経験値の差が一番大きいのはゼロと1との間だ。

>「即戦力」とは、雪かきだろうが便所掃除だろうが鉄砲撃ちだろうが、
その時必要な業務を自律的に理解し、そのうち自らが最も効果を発揮する場所に自主的に移動し、
同僚に任せられるところは任せられる人の事を指す。
>(中略)「即戦力」即「専門家」という誤解は日本だけではなく世界中にあるが、
専門家は「専門場」を用意して始めて力を発揮する。砲台が出来て始めて砲兵を呼べるのだし、
飛行場なしで空軍の運用は出来ない。本当の即戦力はよってむしろジェネラリストになる場合が多い。
>「即戦力」の役割は、「専門家」のために「橋頭堡」を築くことである場合が多い。
一旦「橋頭堡」が出来てしまえば、あとは「専門家」が「専門力」を発揮する環境が整う。
そして「専門家」に陣地を明け渡したら、「即戦力」は即次の現場へと向かうべきである。
たとえその現場がもうその社内に残っていないとしても。
>[404 Blog Not Found:ゼロから育てるって言われても](http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50335440.html)

昔勤めていた病院グループでは、よく医局が飛んだ。