これだから、○○会の先生は…

育った分化の違う医者同士の会合というのは、ヤクザの出入りと同じだ。
なめられたら負け。

負けると疲れる。こちらは相手にお願いするほうだから、「勝つ」ことは許されない。
だからぶつかると絶対に疲れる。ぶつからないようにするためには、自分が紹介する
患者の経過というのを、相手の文化に合わせてプレゼンテーションしなくてはならない。

治療をするときにいつも考えているのは、この人にとって、入院という物語の「オチ」
は何だろうか、ということだ。

前の食欲不振の例では、「腸炎を疑ったが血液データに異常がないので退院、
後の検査は外来でやる予定」とか、「腹部手術の既往があり、イレウスを疑い入院、
点滴と絶食にて経過を見たが、排ガスもあり症状も回復したため退院」とか。

物語は、入院してからの経過を見て考える。その上で、この人の「オチ」にはあと
何が必要なのか、その検査をオーダーして、次の人に引き継ぐ。

全体を通した検査計画を立てて、正確な診察を積み重ねる方法論はもちろん大事。
一方、部分部分は適当にやって、最後に帳尻をあわせる方法論というのも、
けっこう上手くいく。

##そして次の現場
「即戦力」志向の医者が活躍するのに、もっとも幸せな現場というのは、被災地だ。

どんな患者がくるのか予想出来ない、どんな機材が使えるのかすら分からない状況。

万事が万事、危機管理のストラテジーで動く世界というのは、「即戦力」を志向する
医者にとっては一番力を発揮できて、また動きやすい舞台だろう。

世界が安定してきて、もっと「正しい」ことをやる先生方が病院に戻ってくると、
その人達の専門領域は、専門家に任せるようになる。

今まで自分でやっていた血糖管理は、糖尿病の先生へ。患者にかかる医者の数は、
病院にやってきた専門家の数に比例して増加する。
「即戦力」であった医者の出番は徐々に減る。人が増えれば急変は減り、
急変に強い、「何でもできる」医者の出番は徐々に減る。

戦場の鉄火場で大活躍した平気というのは、平和な世の中では博物館行きになる。

小学校の頃に買ってもらったゴツい万能バサミ。缶だろうが板だろうが何でも切れて、
そのへんの紙から、人にはちょっと言えないような物まで何でも切って遊んでいたけれど、
もっといい文房具を買うようになってからはめったに使わなくなった。30年近く経っても
まだ切れるのには感心するけれど。

「即戦力」であった医師もまた、病院に平和が戻ると行き場を失う。

何でもできる医者がいまさら専門を持っても、昔からそれしかやっていない医師から見れば
ただの劣化コピーだ。即戦力志向と専門医志向、2つのストラテジー間の転職というのは
なかなか上手くいかない。

世界が結晶化して、各々がやることが決まってきた職場では、
もはや何でもできる医者などには出番はない。

引き際の問題というのはけっこう難しくて、そもそも本当に「引く」必要があったのか、
それとももっと前から自分の居場所というのはここには無くなっていたのか、
相当先になってから振り返らないと解答は分からない。

分からないけれど、とりあえず鉄火場に飛び込むと、
考えている暇はなくなる。

それだけは経験上、断言できる。