目に見える経済効果がある

##設備投資のいらない「安価」な技術
どんなにすばらしい専門技量を持っていても、たとえばそれが重粒子線治療装置
によるガンの治療の技術であったりするならば、日本で役立てられる施設は3箇所ぐらいしかない。

専門分化の進んだ技能、競争相手のいないニッチ市場というのは、
様々な規模の病院を転々としていく上ではその人を助けてくれない。

高価な技術を生かそうと思ったならば、高価な施設をそろえている病院に就職する必要がある。

働いて楽しいのかどうかというのは、つまるとことは「好き、嫌い」の問題だ。
仕事が忙しいとか、給料がどうとかは、2次的な問題。どんな条件でも、そこが
楽しければ仕事は続くし、どんな高給取りであっても、嫌なものはやっぱり嫌だ。

高価な施設をそろえている病院は少ない。選択の幅はどうしても狭くなるから、
専門技能を生かして、なおかつ楽しく働くのはなかなか難しい。

専門性が高くても、どこにでもある機械を使ってできることならば、
その技能は大いに医者を助けてくれる。どんなところでも、専門家は歓迎される。
その技能を生かすのに、お金がかからないならば。

エコーや胃カメラCTスキャンぐらいまでなら、どの病院にも必ずある。
それが楽しいのかどうかはともかく、こうした道具を使った診断や治療というのは、
持ち運びが可能な技術としては他のものよりも優れていると思う。

##技術の再現性
今から6年ぐらい前、市中病院から「心カテができます」というふれこみで、
一人大学病院へと飛び込んだ。

>針をさして、カテ動かして。たしかに自分では、心カテが「できる」つもりだった。
>ところがウソだった。
>治療の準備をする。カテ台を動かす。記録を付けて、画像をCD-ROMに落とし込む。
>こうしたことは、前の病院では他のスタッフの仕事だったから自分はやりかたを知らない。
>大学では「知らない」では済まされなかったし、それを「知らない」と突っぱねることは、
「私は心カテができません」と宣言するのと同じだった。

幸い、周りが教えてくれたから、半年近く経ってからようやく
「心カテがでる」と言えるようになったけれど。

技術というのは新しい職場でそれを再現できないと、「できる」とは言えない。

例えばエコー。技師さんのいる病院ではセッティングと整備はやってくれるから、
医師は診断行為に専念できる。診断に比べれば、機械の調整とか整備とかは本質でない、
低級な仕事に見えてくる。そんなことを覚える時間があるならば、一人でも多くの症例に
あたりたいと思ってしまう。

ずっとそこでやっていけるならともかく、移動を前提として技術の習得をするならば、
再現性があること、助けがなくても、スタンドアロンで仕事ができるように技術を
学ぶことというのはとても大事だ。

一時期、日本の半導体メーカーの技術者が韓国企業に引き抜かれて技術指導を
していたのが問題になった。

テレビで放映されていた日本の技術者は、何もない体育館みたいな建物に
機械を搬入することから始めて、工場の人を教育して、韓国に一大半導体工場を
作り終えるまでを請け負っていた。

そこまでできる人はさすがに少数なのだろうけれど、
何も知らない人達を前にしても、一人で自分のチームを立ち上げられるような
技術者というのは、たぶんどこに行っても役に立つ。

##やはり欠かせない経済のこと
ちなみに自分は金勘定は全然知らない。全くこれから。

昔は「正しい」ことだけやっていれば、自分がやっていて楽しいことだけやっていれば
それでよかった。若かったから。

30も半ばを過ぎるとそれだけでは駄目だ。

何か新しいことをやりたい。この病院で、こんな外来を開きたい。そうした希望を
通すとき、「企画書」からは逃げられない。

病院での企画書というのには、なぜか「どうやってその資金を回収するのか」という
項目が存在しない。

そんなもんだと思っていたし、他の業界のことなど全く興味もなかったけれど、
世間で言う企画書というのには経済的な要綱は欠かせないらしい。

自分の専門技能には、どういう経済的なインパクトがあるのか。
赤字部門ならば、せめてハッタリでも、どの程度の広告効果が見込めるものなのか。
新しい機材を購入するならば、それがどう役立ち、また何年ぐらいで資金を回収でき、
何年ぐらいで黒字を生むようになるのか。

正しい予測なんか立てようもないけれど、プレゼンテーション能力の一環として、こうした
経済的な知識というのは強みになるのかもしれない。

##マイスター級の医師の凄さ
いい医者になるのは難しい。

医者の「よさ」なんて、一つのものさしだけで評価するなんて不可能だし、持ち運びの
しやすい技術というものだって、しょせんはたんなる名刺代わりだ。

結局大切なものは、正しい知識に基づいた正しい判断であったり、急変のときの
冷静な判断力であったり、問診の技量や下級生の教育といった、その人の人間的なものであったり。

「よさ」というのはつまるところはそういうもんだと昔は習ったし、信じてくれないだろうけれど
今でもそう思ってる。興味のない技術なんて学んだってしょうがないし、
そんな功利的な理由でつまらない技術なんて身に付ける暇があったら、もっと大切なもの、
「いい医者」になるための修練をしたほうが、絶対に将来役に立つ。

マイスターの本質というのは、その技術などではなくて、指導力とか判断力とか経験とか、
そういうもっと分かりにくいものだ。

凄いマイスターが本当に「凄い」のは、その技術が凄いからだけではなくて、
その「腕」すらも名刺代わりの単なる通過点にしかすぎないからだ。

たぶんいろいろな病院を回るだろうし、いろいろと凄い医師に会って、
そうした医師から技術を教えてもらう機会というのもこれから増える。

技術は大事。技術を学んで、可般性を高めておくことはもっと大事。
それでも、もっともっと大切なことは、やはり最後は「いい医者である」。この部分。

説教臭いけど、ここだけは外せない。