神様の不当性を神様に訴え、誇り高い死を選ぶか。

雪山遭難などの想定外の事故の際、子供のような素人がけっこう生き延びる一方で、
ガイド経験者のような専門家はあっけなく亡くなってしまうケースがあるのだそうです。

これは、想定外の事態がおきた時、なまじ専門知識がある分だけ「登山家はかくあるべし」という
自己イメージにとらわれてしまい、生き残るために本当に必要な行動を起こすのに
貴重な時間を浪費してしまうためだとか。

世界の一部にしかすぎない医者からみたモラルだけでやっていけた世界、
あるいはその世界の崩壊というのは、**「かくあるべし」という理念の主体が
医者個人から国民全体へと移動しただけ**なのかもしれません。

医者を規定する理念の主体が、医者が単なる個体にしかすぎない「国民全体」へと移ったとき、
医者からみた「世界」にはライオンの出現のように理不尽な現象がおこります。

それが、最近医療者界隈を騒がせている刑事訴訟だと思います。

「医師とはかくあるべし」という理念の主体が医師の手から奪われた現在、
その管理者の理念、かつて自分たちが持っていた

「良医」という自己イメージ**にしがみつく医師は、運が悪ければ淘汰されます。

##解決は変化と多様化
理念の主体の移動に対抗する手段というのは、変化と多様化です。

理念に縛られている限り、医師は画一化し、世界の観察者から見た
医師のイメージはシンプルなものになり、ルールの変更は容易になります。

一方、医師の行動が多様化し、その生存戦略が一人一人ばらばらになれば、
観察者は何をすればいいのか方針が立てられなくなり、
集団としての医師が相手の理念に縛られる可能性は低くなるかもしれません。