エビデンスの集積の先に真理はあるのか

>次に誰かが大切そうなことをお前に言うとき、自分で考えるんだ。
>「これは証拠によって人が知ることができるようなことなのだろうか?
>あるいはこれは伝統や、権威や、お告げによってただ人々が信じているようなことなのだろうか?」って。
>そして、次に誰かがお前に何かが本当だと言うとき、こう言ってみたらどうだろう。「どんな証拠があるの?」って。
>[satolog: 信じてもいい理由と信じてはいけない理由](http://po3a.blogspot.com/2006/03/blog-post_114298809344017542.html)より引用

##ゴールなき勉強に意味はあるのか

研修医の頃は、エビデンスに基づいた治療が大好きだった。

動機は不純。

「先輩、いまどきこんなペーパーも知らないんですかぁ?」と上級生に喧嘩を売るのが
何よりも面白かったし、自分の発言が周囲に真理として伝わる満足感もあった。

嫌な奴だったし、友達も少なかった。**論文は人を裏切らない**。
そんな理由でEBMが好きな人、案外多いんじゃないだろうか。

一応勉強も好きだった。やりかたはこんなかんじ。

1. 問題になっている分野の教科書を読む。
2. その分野の新しめの論文を読む。
3. 論文に基づいて解決法を考える。
4. 上級生に喧嘩を吹っかける…

証拠を重ねていけば、やがて成長して真理に辿りつける。そんな童貞臭いことを考えていた。

今は逆だ。「エビデンスに基づいた…」が大流行の昨今。「証拠」ぐらい胡散臭いものは
ないと思ってる。

体験したことのない問題にあたったとき、今はこうしている。

1. まずやったことのある人に「**どんな感じか**」聞く。
2. 誰でもいいからベテランに「**どう思うか**」聞く。
3. 自分なりに「**多分こうだろう**」と考える。
4. Medline を当たって、自分に味方してくれそうな論文を探す
5. 周囲を説得するか、力で押し切る。

大事なのは成功体験。たとえ一人であっても、「直したことがあるよ」という人の実体験。
証拠なんか2の次。直せれば後からついてくる。

##「証拠」を本当に信じていいのか?
証拠には序列がある。

我々の業界では、もっとも重要な証拠は前向きのランダマイズドトライアルで、
中程度のものが過去の事例の集積で作った論文。
もっとも軽視していいのはベテランの意見。
さらに、評価の対象にすらならないのが、ベテランでない人が「とりあえず直したことがある」
という成功体験だろうか。

証拠の評価にもまた、厳とした順位付けがある。

もっとも優れた評価は、Nature とか NEJM といった有名雑誌に掲載されること。
評価の下を見ればきりがないけれど、2ちゃんねるあたりに自分の考えを書きこんで、
「お前すごいな」と言ってもらえたりすると、けっこううれしい。

証拠というのは、本当に信じていいものなのだろうか?

重要な論文、大事な証拠というものは、それが発表されると多くの人の価値観を
左右する。

残念ながら、「証拠」の価値が上がれば上がるほど、その証拠が利権や思惑から
自由になるのは難しくなる。

過去の事例を集めて何かの結論を出すスタディなら、まだ訂正も効く。