事実の集積を解釈したのは論文の作者。

確かな部分と、ツッコミどころが明確に分離しているから、誰が見ても分かりやすい。

問題なのは前向き研究だ。

スタディをやる前から、論文の作者の頭の中には「こうあってほしい」という結論めいたものはある。
ところが、実際にそのとおりになるのかどうかは、実際にスタディをやってみないと分からない。

ある治療、ある薬に効果があるのかないのか。

想定している結論により、その解釈は微妙に左右される。患者は死んだが効果はあった。
あるいは、病気は治ったけれど、それは他の原因だろう。いろいろ。

建前では、前向き研究には「ゴール」と呼べるものはない。あくまでも条件をそろえた対照群を
用意して、その人達に何かの治療を施して、結果がどう変わったかの事実だけを見る。

作者の判断や、思惑は「事実」という言葉の陰に隠れる。どこまでが思惑で、どこからが
掛け値無しの真実なのかが分からないから、結論をそのまま信じるしかない。

エビデンスを集積して正しい治療に辿りつこうとするのは、レンガで塔を造って、
天に上ろうとするようなものだ。

レベルの低い証拠は、粘土で作った柔らかいレンガ。レベルの高い証拠は、石のように堅いレンガ。

柔らかいレンガは変形するので、修正が効く。塔は水平を出しやすいけれど、高く上るには
強度が不足する。堅いレンガは強度があるから、基礎に据えるにはもってこいだ。
ところがこいつは、たいていの場合微妙に歪んでいて、その修正が効かない。
塔の基礎は丈夫にできるけれど、塔がいよいよ天に届くかな…という頃、塔は傾いて倒れてしまう。

続きはまた。