**まちがってもアジテーターにはならないように**。

最近は、このルールをことごとく破っている。

昔から「いい文章」を書こうと気張っては難しい表現を多用してみたり、
読者受けをしようと色気を出しては誰かを中傷するような表現を多用してみたり。
そのつど怒られた。

いい文章なのかどうかはさておき、テキストをたくさん書くことで、その人の
「文体」みたいなものは自然にできてくる。分かりやすいのかはさておき、
長い文章を書くこと自体は、けっこう簡単にできるようになる。

昔は実家の文章作法を守ってた。

ところが、アイデア先行で文章を書くようになってからは、
原則から外れた文章ばかりになってしまった。

文章のタネになる発想というのは揮発性で、いつ思いつくか分からない。

「いい発想」と「発想の文章化」というのは全く違った工程で、
面白い発想であっても文章化するとつまらなくなってしまったり、
逆につまらなそうな発想であっても、文章化していく過程でアイデアが膨らんできたり、
いろいろ。

大事なのは、アイデアの質ではなくて、量だ。

とにかくアイデアをいっぱい出して、
とりあえず文章にしようと試みないと、それがいいものなのか、そうでないのかは
判断できないから。

「今の考えかたは面白かったから、後からまとめよう」と思ったことで、
後から思い出せたためしがない。

発想というのはどこか意識の奥の方、アカシックレコードみたいなところから浮かんでくる、
水泡のようなものだ。

泡が水面ではじける瞬間を記録できれば、それはアイデアになるけれど、「その瞬間」を
記録できなければ、そのアイデアは失われてしまう。

イデアを見つける工程について、漫画家の萩尾望都はそれを「海に潜るようなもの」と表現している。
ネーム(漫画の原作)を作る作業は暗く深い海―無意識の世界に深く潜っていくこと。
そこにどんどん深く潜れば潜るほど、いいものが見つかるという。

おそらくは、プロの表現者の人達の集中力というのはものすごくて、アイデアの水泡が意識の水面に
浮かぶその前、水中にある時点でそれを持って来てしまうのだろう。

普通の人にはできないことだし、作家の人たちが時々「向こう側」に行ったまま帰ってこないのは、
あるいはそうした行為を繰り返した後遺症みたいなものなのかもしれない。

自分はまだ常識人(一応)だから、アイデアは意識に浮かんだ瞬間、
水面で泡がはじける瞬間を書きとめるようにしている。

具体的には palm を常に持ち歩いていて、何かがフッと浮かんだとき、後回しにしないで
その瞬間にメモをする。

ちょっと前、島田伸介の何かの番組で、伸介が磯野貴理子のハンドバッグの中身をぶちまけてしまい、
その中にあった「ネタ帳」をカメラに公開したことがあった。

分厚いノートの中は、会話の言い回しのネタでびっしりで、
「みんなこうやってるんだ…」と感心した記憶がある。

たとえば、palm のメモには、こんなことが書いてある。