祟りは、どうなったら発動するかの基準があいまいで、

また祟られたら何をされるのかがはっきりしない。
原則が無いから、その存在を常に意識しないと行動できない。

法律は、強者に優しい。ルールの限界に挑むためには、それなりの勇気と打たれ強さは
欠かせない。強いものは、常に法律ぎりぎりまで行動できる。弱いものは、
その法律の境界のはるか手前であきらめるしかない。

祟りは常に、弱者に味方する。

祟りは「みんな」に信じられることで、その効果を出す。どんな世界でも強者は常に弱者に
数で劣る。「みんな」の信じる祟りの原則は、多数決と公平だ。
弱い人には、祟りは弱い。強い人には、些細なことで強力な祟りがおきる。
強い人は、祟りのそばには近づけない。

##祟りを実体化するものは何か
祟りは目に見えない。

その存在はあいまいで、「祟られる」ことで受ける罰の内容も、
その人が想像するしかない。

目に見えないものなのに、祟りは誰の目にも明らかに**見える**。

あいまいである一方で、誰もがその存在を信じられないと、そもそも「祟りルール」は成立しない。

たとえば、「**ここでの会話は、24時間録音を続けています**」という張り紙は、立派な祟りとして
機能する。

録音するだけ。マイクもレコーダーも見せない。
警察に通報するとか、暴言が出たら弁護士を呼ぶとか、祟りに触れたら何がおきるのかは
一切言わない。
こんな通達を、病院側が一方的に行ったら、これは単なる恐喝。
そんな施設は地域から見捨てられるだろう。

ところが、これを「市民のための医療オンブズマン」みたいな団体との取り決めで、
「言った、言わないを避けるためにこうしましょう」とみんなの合意で行うと、
単なるテープレコーダーが、**地域に君臨する祟り神**として実体化する。

「いい祟り」の成立条件は、以下のようなものだ。