病名がつくる境界

誰かの陰口をいうときに、「**あいつさぁ、なんか病名つくんじゃねえの…**」という表現を使って、
周囲の黒い笑いを誘うのは効果的なやりかただ。

「病名が何なのか」は、こちらからは明示しない。

たぶんみんな、頭の中にある一番ひどい病名が浮かんでる。

病名をつけることで生まれる共犯者意識、病名をつけることで生まれる
「正常を外れた奴」というレッテルは、
対象に破滅的なダメージを与えてくれる。

##病名は境界を内包している
病名をつけることというのは、「正常な私達」と「あなた」との間に境界を作る行為だ。

健康な状態と病気の状態というのは、本当は連続していて、
境界なんか存在しない。

どんなに健康な人でもどこかしらには悪いところはあるし、その逆もしかり。

でも、連続した概念は科学で扱うのは面倒だから、適当な大きさで境界を引いて、
病名という言葉で一塊としてあつかう。

一つの病名には、いろいろな原因が含まれている。

昔は病気は治らなかった。治る原因しかない人は病人じゃなかったし、
治らない原因を持っていた人は亡くなった。

病名という境界は、そのまま世界の境界だった。役に立ったし、矛盾が無かった。

医学は進んだ。病気を作っているいろいろな原因のうち、そのいくつかは解決可能になった。
病気という境界は実世界のほうに進入してきて、「一生治らない病気」が生まれた。

集団の中で仲間はずれを作るときに必要なのは、境界だ。

病名をつけられた人は、「向こう側」の人。完全に回復した人だけは「こちら側」に
戻ってこれたけど、そうでない人はもっと**むこう**にいって、見えなくなってしまった。

今は違う。病人の世界と健康人の世界とは、地続きで存在している。

病人の世界にもたくさんの人がいて、みんなこちら側に戻って来たがっている。
みんな十分に社会生活ができるのに、病名という境界が邪魔をして、
健康人の世界にはなかなか戻れない。

「あなたの病名は○○です」とか、「あなたの病気は、今こうなっています」といった表現は怖い。

自分も全く自覚なしに多用しているけれど、ありもしない境界を作る行為はしないほうがいい。

##境界を戻るのは難しい
2つのりんごと3つのりんご。足したら5つ。

>2+3=5。

りんごを足す前の状態と、足した後の状態。足し算が行われたことで、2と3という
情報は失われ、「5」という答えだけが残る。

2と3と言う数字から5を再現するのは簡単だ。
ところが逆は難しい。5を作るには、1と4とを足してもいいし、
7から2を引いたってかまわない。

「**=**」という境界をまたいだとき、情報は抽象化されて失われる。

病名は境界だから、一度ついてしまった病名を覆して、「健康人」に戻るのには相当な苦労がいる。

病名とは、いくつかの症状を足して、抽象化したものだ。

症状の原因のあるものは解決可能だし、あるものは解決不可能。
全ての原因が解決しなくても、社会復帰自体は十分に可能。

ところが、病名がついてしまった時点で、健康であったころの情報は抽象化され、
失われる。

病名がついた人は、原因の全てが解決しなければ、定義の上では「健康に」もどることはできない。

糖尿病や高血圧はいい薬がたくさんできてきて、大分コントロールがつくようになった。
みんな普通に社会生活を送っているのに、一度ついてしまった病名が外れることはまれだ。

##あいまいな境界の持つ利点
あなたの病気は…とか、この病気は…という表現を使ってしまうと、
どうやったらその病気は治るのかとか、手術を受ければいいんですかとか、
話が「**全か無か**」的な方向にいってしまい、どうもうまくない。

健康な状態と、病気の状態というのは、本来が地続きのものだ。

そこに「病名」という変な境界が残っているから、話がややこしくなる。

「病気か、健康か」という2者択一を迫る会話のやりかたというのはお互い
好ましくない。何よりも、「完全に健康体に戻った」と言う保証が得られないと、
患者さんが退院してくれなくなったりする。

最近心がけているのが、「あなたの病名は…」というかわりに、
「**あなたの症状の原因になっているのは…**」という
表現を使って、その原因について話すことだ。

単なる言葉遊びにしかすぎないのだけれど、「病名」という言葉をあえて外して、
境界をあいまいにするように心がけることで、
「症状がだんだんよくなって、ある程度落ち着いたら外来へ」といった、
連続的な流れを表現できる気がする。

うまくいくとは限らない。病名をつけないと不満を訴える人も多い。
骨折みたいにそんな言葉遊びが無意味な病気も、また多い。

それでも、内科の慢性疾患の人なんかで、病名が山ほどついてしまう人などに
こういう話の持っていきかたをすると、入院期間が1日ぐらいは短くなると思う。