「暴力」と「法律」

情報とか、正義とか、生きていくのに必要な他の要素については、必ず何らかの代替案がある。

NHKが嫌いなら、テレビを捨ててマイクロソフトやgoole を応援すればいいし、
警察が嫌いなら、暴力団に私財を投じればいい。

残念ながら医療はそうはいかない。

病気になった人には、「西洋医学にかかる」以外の選択肢は与えられない。

病院を代えたところで、西洋医学の基本思想は変わらない。

東洋医学などの代替医療はたしかに存在するけれど、
とてもじゃないけど西洋医学を補完するだけの力はない。

武器をとって戦いに参加するには、何らかの選択をしなくてはならない。

ところが、病気になった人というのは、本来は戦いの当事者なのに、
自分が受ける医療については何の選択もできない。

病気になった人は、医療全体に対して「信託」を与えることしかできない。

戦いそのものには参加できるのは医療従事者だけだから、
あとはみんな外の人だ。
「中の人」の戦いかたと、「外の人」が見た戦いかたというのは、もう絶対に分かりあえない。

生き延びる術を求める小数の医療従事者と、それを卑怯な逃げと見る多数の「戦いの外の人」。
西洋医学が医療を独占してしまった昨今、
病気の当事者たる患者さんもまた、「戦いの外の人」になってしまった。

医療は結果が全てなのは確かなのだけれど、最近はちょっと厳しい。

事実上の独占状態であるこの業界は、医師に対して
おびただしい特権をもたらしてきたけれど、最近はその弊害も目立ってきた。

大相撲。

武士道が生き延びるための方法論であった時代には、
横綱同士の頂上決定戦は縁起が悪いとされ、
行われなかったという。

勝つための戦いを行わざるを得なかった時代の武士達は、
対立の構図を崩す不幸、最強を決定する不幸というものを知っていたのではないかと思う。

##「参加できる戦い」を作るもの
参加できる戦争を作る条件は2つ。