変成していく体験を重ねることで、蓄積した雑多な知識は査定され、

整理されて、実世界で活かせるようになる

##はじまりはSF から
本屋から、SF 小説が減っている。

ちょっと前までは、SF 小説を置いていない本屋なんてありえなかったのに、
最近はもう絶滅寸前。

SF は本棚の中でのニッチを失い、かつてあった広大な領土には、
今は漫画文庫とライトノベルが並ぶ。

本屋に平積みされているのは、感動を押し売りするベストセラーばっかり。

>**マスメディアに洗脳された愚民どもがッッッ…!!**

お金もらっても読む気になれないような本ばっかりが売れているのを横目で苦々しく思いつつ、
自分が買うのは「**涼宮ハルヒ**」全8冊の大人買い

現代のSF ヲタクは救われない。

##ヲタクの知識は蓄積する
全てはSF と鉄道から始まった。

SF ヲタと鉄ヲタというのは、ヲタクの最小公倍数みたいなもので、
SF からはギークとかアニヲタ、ゲームヲタが派生していったり、
鉄道から分派のは、カメラヲタとかアイドルマニアとか、
SF 方面とは相容れない趣味の人たちだったり。

外から見るとみんな同じに見えるんだろうけれど、中は細かく分かれてる。

ヲタの社会でものをいうのは、知識の量。

SF を語るためには「最低限これだけは…」という本は必ずあるし、
濃い人達は、みんな同じ道を通って来ている。

読まないと話についてこれないし、
新しい小説もまた、「読んだ人」を対象に文章を書いているから、
知識の蓄積は欠かせない。だから敷居が高くなって、SF が売れなくなるんだろうけれど。

駆け出しのヲタのパワーを支えているのは、歪んだ認知の力だ。

ヲタの世界では、取り込んだ知識の量が全て。
コミュニケーションなんて関係ない。交流を経て得た体験なんて、
すぐに腐ってどこかに行ってしまう。蓄積しない。

駆け出しのヲタは、正しい知識だろうが、
そうでなかろうが、とにかく貯める。どんどん貯まる。

知識を蓄積して何かをするわけではなくて、貯めることそれ自体が面白い。

批判的な精神とか、そういうなんだか**空しくなるようなこと**はとりあえずどけておいて、
まずは貯める。

歪んでるけれど、歪んでるからこそパワーが続く。

受験勉強と同じ。考えた奴から、成績は落ちていく。

高校の頃は受験校にいたけれど、現代国語の先生は
「国語を理解するには数学的なセンスが必要だ」と諭し、
数学の先生は「数学は暗記だ」とおっしゃった。

全ては暗記だけ。無批判に、どれだけ多くのことを脳内に格納できるか。

##感動して信じる「普通の人」
大学の頃。SF ヲタから始まって、この頃の自分はオカルトどっぷり。

オ○ムが世間を騒がす前に流行していたのが某新興宗教だったけれど、
自分が自治会をやっていたころの母校でも、やはり信じる奴はいた。

教祖の書いた本が自治会室に投げ込まれたり、得体のしれない団体の設立願いが
出されたり。全部却下したけど。

その団体の教義というのは、単なるオカルト。

>**君達の主張する「真理」とやらは我々が26年前に通過しているッッッ!!**

昔からの「ムー」読者なら、躊躇なくこう叫ぶ。今年で創刊27周年目。今も買ってる。

「脳内革命」とか、最近だと「水からの伝言」などもそうだけれど、
オカルトマニアから見ると「ネタ」にしか見えないようなものに、本当に感動する人がいる。

コミュニケーション障害をおこしているヲタに
言われたくはないだろうけれど、精神世界に入り込むなら、
せめて「ムー」のバックナンバー1年分ぐらいに目を通してからにしようよと思う。

人間は、前知識のない物を見せられると、感動の閾値が下がる。

その感動の勢いを利用して、ついでに教祖に従ってもらおうというのが
カルトの基本戦略だけれど、伝統的な宗教が「悟り」みたいな概念で
呼んでいるものというのは、本当はその「感動」体験の先にある。

感動体験それ自体は、たとえば禅の世界では「悪いもの」としてあつかっていて、
それに流されないようにと教えているはず。

頭の中に蓄積した知識というのは、未知の体験に対して、鎧のようにその人を守る。

コミュニケーションを重視するときには、余計な知識というのは
しばしば邪魔になるのだけれど、作られた感動体験を突っ込まれて、
それに流されないような冷静さを身につけるためには、
やっぱり知識の蓄積というのは不可欠なのだと思う。

##知識先行型は現実に弱い
>戦おうよ、現実と。

知識が先に立った人間が苦手なものが、「現実」というもの。

実際に現場で動いている人がいるその場所は、ともすれば自分の方がよっぽど詳しい
知識を持っていたりもするのに、知識だけでは何も手出しができない。

知識があれば、動いている人を批判することはできる。ところが、「**じゃあやってみて**」と言われて、
実際には何もできないから、無力さがつのる。

「本物」に出会ったとき、積み重ねてきた雑多な知識は、現実の体験により再構築を受ける。

鉄ヲタが実際に鉄道会社に修飾したとき

再構築を受けた知識というのは、あるものは淘汰され、別のものは便利に利用されて、
最終的には現実世界での自分を助けてくれる。

それでも、学んだ知識というのは
しばしば抽象的過ぎて、現実に適用するのが難しい。

抽象化は、その過程で常に何かを失う。

知識先行型の人間が取り込む大量の知識というのは、
体験が伴わない分、必ず誰かによって抽象化され、蓄積が容易になっている。

ところが、チェスの駒で本当の戦争ができないように、
抽象化した知識を用いて実世界で活用するのは難しい。

それを査定して、また実世界で通用するように転換
するシステムというのは、実世界の体験を通してしか
自分に導入できない。

##意識の土台を作る変成する経験
実世界の体験を通じた知識というのは、すぐに散逸する。

日常臨床や、普段の何気ないおしゃべり。こういった経験はいくら積んでも
きりがないし、すぐに変成してどこかに消えてしまう。

それでも、みんなでおしゃべりするとか、上司と一緒にご飯を食べるとか、
そうした変成してしまう経験を何度も繰り返していくと、「現場感覚」というものがだんだんとできてくる。

知識の蓄積はとても大切だけれど、変成する経験を重ねることというのは、
その人の判断の土台、あるいは測定のゼロ点に相当するものを、
より明確にする効果があるんじゃないかと思う

全盛期の立花隆(今はどうしちゃったんだろう…)の
ルポルタージュがあんなにも説得力にあふれていたのは、たぶん理由が2つある。

一つは、膨大な資料を読破していたこと。もう一つは、
常に問題の当事者の人達と直接に会話を交わして、
判断規準の「キャリブレーション」を、きっちりと行っていたからだ。

どんなに精密な測定機器であっても、定期的なキャリブレーション(ゼロ点較正)を行わなければ、
その値は信用できない。

いろいろな人とあって会話をして、自分の中に「変成する経験」を重ねるという行為は、
たぶん自分という測定器のキャリブレーションを行う意味がある。

実際の現場にいる人とたくさんの会話を通じて、自分の中に仮想的な「現場感覚」を作りあげて、
膨大な資料を読破して得た知識を再構築してのけたことこそが、
かつての立花隆の説得力の秘密だったんじゃないかと思う。

##経験の量はその人を変える
現場感覚を体験するとか、あるいは現場の空気を吸うという経験は、
その経験数を増すほどに、その人の質を変えていく。

本を読んで得られる知識の蓄積が連続して実感できるのに比べると、
現場体験というのはすぐに変成してしまって、自分が変わったという実感が得られにくい。

現場仕事というのは汚くて、成長の実感が得られないから、みんな嫌がったり、
いつまでも現場にいる奴は「負け組み」認定されたり。

現場感覚の習熟の工程というのは、連続しない。途中で飛躍があったり、
過去との断絶があったりして、
階段状に成長していく。

40人の入院患者さんを受け持つための方法論と、10人の患者さんを受け持つための
やりかたとの間には、ある種の断絶がある。40人受け持てる人が10人を受け持つことは
もちろん可能だけれど、10人しか持てない人のやり方とは、もはや全く異なってしまう。

10人を12人にする、12人を15人にする…と徐々に増やしていく過程では、
あるいはその断絶には気がつかないかもしれない。

けれど、10人受け持つのがやっとだった頃と、頑張れば40人の受け持ちの負荷にも
耐えられるようになったときとでは、メモのとりかたや患者さんとの話しかた、
あるいは自分の思考のプロセスというものは、違ったものになっている。

研修医のときに受け持つ患者さんはいろいろで、興味深い症例の人もいれば、
「主訴、入院希望」とか、単なる食欲不振だけとか。

そんな人をたくさん受け持つのはつまらなかったり、
あるいはそんな人ばかり診ていたんでは実力がつかないとか、
果ては「**腕が腐る**」とか、ひどいことを考える奴もいたりしたけれど、
決してそんなことはないと思う。

「つまらない病気」の人というのは、医学的には手を出す余地の少ない人、
より「正常」に近い人。

独立して一般内科などをやるようになると、
一番大切になってくるのが「正常ってなんだっけ?」という感覚で、
こればっかりは正常な人を数多く診ないと身につかない。

検査なんかでも同じで、たとえば心電図を読むとか、エコーをやるといったことから
もっと複雑な検査に至るまで、最初にやらなくちゃならないのが、
自分の頭の中に「正常値」を作ること。

人の入院経過というのはいろいろなのだけれど、「この人はいつもの経過から外れている」という
読みだけは、いくら論文を読んでも、あるいは「興味深い症例」をいくら見た経験があっても
なかなか身につかない。

難しい手技を何回やったとか、めずらしい症例の患者さんを何人持ったといった
経験もきっと大切なんだけれど、そうした機会が少ない施設にいったとしても、
そこで得られるものというのはきっとあって、それは案外、難しい手技ができるように
なることよりも大切なんじゃないかと思う。

「量」を「質」へと転換させる一つのコツは、とにかく誰かと接する機会を増やすことだ。

論文をたくさん読むとか、教科書をひたすら独学するという行為は、「蓄積」を作ることはできても、
「量」は「量」のまま。知識は腐らないけれど発酵もしないから、何かに転換するということもまた少ない。

そうした勉強よりもむしろ、風邪ばっかりの外来をたくさんするとか、
とにかくいろんな患者さんを山ほど診るとか、
ベテランと一緒に、それこそ食事からトイレに至るまでダラダラ一緒に行動してみるとか。

そうした一見無駄な行為を積み重ねることは、たぶん結構大事だ。

変成する経験知を積み重ねていって、いつか「断絶した過去の自分」を
認識できるようになったとき、そのときこそが「ベテラン」
の仲間入りをした瞬間なんじゃないかと思う。