絵を描く能力

借金の取立人は、債務者の支払能力を評価する際に「絵を描かせる」のだそうです。

別にその場で何かのスケッチをさせようというのではなく、債務者が今の状況からどうやって借金を返すのか、その方法をこの場でどれだけ具体的に説明できるか、という意味なのだそうですが、何とかこれができる人、例えば

「親戚からいくら借りる当てがある、実家の土地を担保にすればいくら借りられるからこれで3ヶ月分の利子をしのいで、その間にこうした仕事を世話してくれれば6年間で元本だけは何とか返せます」

といった返事がすぐにできる人は、例えそれが口からでまかせであったとしても何とか返済が可能なのだそうです。一方、「何をどうしていいやら、まったく分かりません‥」と返事をする債務者に対しては、もう生命保険で払ってもらうぐらいしか手がないのだとか。

医師に求められる能力の1つは、こうした絵を描く能力だと思います。

患者さんの状況は刻一刻と変化しますが、ベテランの医師は患者さんが何かの主訴を抱えて病院にきた瞬間から、その人が問題を解決して病院から帰るまでのイメージを頭の中に描き始めています。

例えば、何か初診の患者さんがきた場合に考えることはこうです。


「一目見て死にそうに具合が悪かったら入院前提で採血、そうでもなかったらこんな鑑別診断を考え、それを証明するためにこの検査とこの検査をして、異常があったら〇〇科コンサルト、まったく異常がなかったら「原因はハッキリしませんが、この症状で致命的になるような病気は今のところなさそうですからしばらく様子を見ましょう」と言って帰宅させよう。待ち時間がたぶん2時間近くあるから、時間つなぎにラクテックでも1本落としておけば満足度も上がるだろう。」

このぐらいのことを患者さんにあったときから考えはじめ、話を聞いたり、所見をとったりする中でこうした退院までのイメージをどんどん変化させていきます。

この情報を取る->退院イメージを描きかえるというサイクルが早ければ早いほど、患者さんの待ち時間は少なくなり、またミスが減っていきます。逆に、このサイクルが遅いと状況が変わってからの判断が遅れ、暫定診断は迷走し、患者さんは悪くなるか、怒って帰っていったりしてしまいます。

この絵を描く力というのは、ガイドラインや教科書をいくら勉強しても身につくものではなく、とにかく忙しい現場での経験値を積む以外になかなか身につける方法が無いのですが、当院の研修医諸氏にはいつも自分なりのイメージを描くよう、お願いしています。

それが例えば、大量吐血の人が来るといった状況で、10年目の内科ならだいたいこんなことを考えます。

「とりあえずラインをつないでバイタル、サンドスタチンを用意してもらっておいて血液検査、話を聞いて肝硬変っぽかったらサンドスタチン静注、胃潰瘍だったらNG挿入の上洗浄。ラクテック1本落としたら下級生に番をさせつつ自分は胃カメラの準備をして止血」

そんなことを思い描きながら救急車を待つところを、1年生なら

「救急車が来たら自分にできることはモニターを張って血圧測定。今日の消化器オンコールは〇〇先生、外科オンコールは〇〇先生だから携帯の番号は確認しておこう。来て危なそうならすぐ上を呼んで自分の仕事はおしまい。そうでないなら今のうちに吐血の鑑別疾患を覚えておけば怒られないかな‥。」

でも構わないと思うのです。

大事なことは、とにかくその場で患者さんの状況改善に向けて自分にできることを、なるべく具体的にイメージすることです。自分の得意分野であれば、慣れれば数秒でできるようになります。

部長クラスの内科医は、患者が急変しても慌てません。急変の鉄火場で指揮官が崩れたらもう患者さん含めてチームはおしまいなのですが、部長以外の皆が「もうこれは死んだな」と放り投げるような状況でも、ベテランはあきらめる代わりにまずわずかでも時間を稼げる治療手段を探し、それで時間ができると次の問題を解決し‥と、気がついたら患者さんは落ち着きを取り戻しています。

あとから、部長に何でそういう対処ができたのかたずねると、「あの状況なら、まだまだこういう解決手段があると分かっていたから冷静でいられた」といいます。自分もいつかはその境地を目指したいと思いながらも、いつも急変が起きると頭は真っ白。まだまだ修行が足りないな、と思います。