インフォームドコンセント

患者への説明は大切だ。現在の病気の状態はどうなのか、どういった治療法があって、それぞれどういった利点と欠点とがあり、治癒の見込みや社会復帰の可能性などはどの程度あるのか。

医師は知りうる限りの全ての情報を患者側に提供しなくてはならず、患者はその中から自分が最も納得のいく治療を選択し、治療を受けることに同意する。

本当にそうだろうか。

たとえそれが自分の体の事であっても、十分に理解できない話題の「全ての可能性」を延々と話されるのはきつい。選択肢を6つも7つも示されても、十分な医学知識もない状況ではどれかを選べといわれても無理だ。

一方、ある程度の医学知識のある患者、あるいはその家族にしてみれば、明らかに「当て馬」的な選択肢の説明などを延々と聴かされたところで、だるいとしか思わないだろう。そうした人たちであれば、当初から最も望ましい解決策は大体見えているだろうし、何時間もかけてあれこれ話されても、感謝するどころか時間の無駄だと思うかもしれない。

最近は、相手から望まれない限りは治療に関する「全ての選択肢」を話すことをやめている。選択肢として挙げるのは、自分が一番いいと信じている本命案と、次にありそうな対抗案だけを提案の2つ程度にすることが多い。個人的に気を付けているのは以下のようなことだ。

患者やその家族に物事を決定してもらうときに、「どうしますか?」と聞いてはならない。「こういった治療を考えているのですが、どうですか?」という尋ね方をしなければならない。

こちらから何かを提案をする場合は、患者さんが「Yes/No」で答えられるように尋ねなければならず、相手にその解決策を考えさせてはならない。

患者さんは自分の体の事で忙しい。無駄な時間を使わせてはならない。そして、決断のしやすい提案をしなければならない。

全ての選択肢を話さないムンテラは、一方で「そんな話があったとは聞いていない」と言われるリスクは当然ある。自分の責任回避のためのインフォームドコンセントを考えるのであれば、当然全ての選択肢、起こりうる合併症について全てお話するのが筋だ。

しかし、この数年マスコミに散々ぶち壊しにされたとはいえ、個人的には医師-患者の気持ちのいい信頼関係を商売の種にするのがプロの医師だと信じたい。円満な話し合いが出来るのなら、出来ればけんか腰のムンテラはしたくない。

この選択肢ではこうした合併症の可能性があり、死亡率5%。この薬を飲むと以下のような合併症を生じる可能性がありますが、飲まないよりは死亡率は15%程度減少するかもしれません。
何もしなければ3年後に30%の人が亡くなります。どうしますか?

ただでさえ病気になって気が滅入っているときに、患者さんはこうした話を聴きたくて病院に入院するのだろうか?

今のご時世、1つ地雷を踏んだら最後なのは重々承知しているつもりだが。