医師の独り立ち

研修医を育てるにはお金がかかる。研修医の手技には無駄が多く、一方給料だけはきっちり持っていかれる。

自分が研修をさせてもらった当時、研修医が自分の食い扶持を自分で稼げるようになるまで最低3年、その間に病院が持ち出すお金は一人当たり2000万円程度と教えられたことがある。当時は何を大げさなとも思ったが、今考えるとたしかにそのぐらいのお金はかかっているのだろう。それでも多分、他の業界で戦力になる人材を作るのに比べれば安上がりだ。

一人の医師が病棟の戦力として数えられるようになるとはどういうことか。外科には手術手技の上手下手がかかわってくるため話が違ってくるが、内科であれば必要な医学知識を身につけているのは当然として、一人の力で患者さんを退院まで持っていけるだけの能力を身につけることだと思う。

上司から言われたタスクをこなすだけなら、研修医でも出来る。大事なことは患者さんの問題が何なのかを発見して、患者さんの問題点を専門家にプレゼンテーションし、必要な助言/治療を患者さんに施してもらい、患者さんの問題点を解決していく能力を身につけているかどうかである。

そういった能力が身についていれば、その医師はたとえ病院を替わっても診療を続けることが出来る。新しい病院で患者さんについて分からないことがあっても、「自分はこの部分が分かりません」とプレゼンテーションする能力があれば、他科への紹介状ぐらいはかけるだろう。

こういった問題発見/解決の能力、プレゼンテーション/コミュニケーションの能力というのは、現在の高度にシステム化された臨床研修システムではなかなか身につかない。患者さんの問題点はたいてい上司に発見され、研修医はその指示を受けるのみ。評価されるのは上司の指示をすばやく実行する能力なので、自分で問題点を発見する訓練はなかなか出来ない。

では、そういう能力を身につけさせてくれる病院はあるのか?昔はあった。

昔、少なくとも自分達が研修医として就職した頃までは、大学病院/民間病院を問わずに、人の少ない小さな病院に内科医として赴任しなくてはならない機会があった。自分ではそこそこに仕事が出来ると思い込んで自信がついた頃、そういった周囲に相談する人もいないような状況に放り出されると、全くといっていいほど何も出来ない自分に初めて気がつく。新人医師のプライドと小賢しい問題回避能力は完膚無きまでに粉砕され、ただでさえ人の少ない病院で周囲に迷惑をかけながら、医師はだんだんと自分の流儀を身につけ、独り立ちしていく。

現在はそんな機会は無い。医療従事者に対する世間の目は厳しくなり、新人が一人で診療を行う病院などは苦情が殺到して成り立たなくなる。また、そういった厳しい機会に晒された新人がそのまま凹んで、気がついたら医局を辞めていた…などということが相次ぐようになり、「いきなり厳しい病院に放り出す」ということが出来なくなってしまった。

現在、そうした能力を身につけようと思ったら、自分で上司から盗んで覚えるしかない。いまさら徒弟制の復活を唱えるのはアナクロかもしれないが、やはり独り立ちしたいと思ったら、どこか尊敬できる上司のいる病院にもぐりこみ、文字通り丁稚奉公して生活を共にし、自分と上司とを隔てている知識を盗むしかない。

医師免許を持っている人は増えているが、一人でお金を稼げる、即戦力になる医者の数はむしろ減っている。

職人の世界というのは従来、無給に近い丁稚奉公を10年近く続けないと一人前としては認められなかった。かつては医師の世界もまさに丁稚奉公の世界で、10年近くかけてやっと駆け出しの医師として世の中に出してもらえた。

しかし、何かを作る職人を育てるためには、その間何度も失敗を重ねる必要がある。他の業界であれば、初期の失敗作というのも一人前の職人になったときにはいい思い出になるかもしれない。医師の場合、失敗作とはすなわち屍体だ。思い出になどしていいわけがない。「医者は○人殺して一人前」という言葉は冗談ではなく真実で、やはり医師という仕事もどうしようもなく職人的な世界である。

この数年、臨床研修は研修医に失敗経験をさせない方向で進化してきた。これは患者さんの安全を考えれば当然のことなのだが、一方で急変に対して手も足も出ない医師が増えているように思う。

「患者さんの安全を確保しつつ、どうやったら新人に失敗経験を積ませられるか、民間の病院ではそれが非常に難しい。自分は、シミュレーション的な技術が何らかの助けになるように思う。」
自分が研修をさせてもらった病院を辞めるとき、去り際に病院長が述懐しておられたが、いまはどうしているのだろう。

「失敗したら即(他人の)命がけ」という職人的な職業は、医師以外にもいくつかある。旅客機のパイロットなどはその代表的なものだが、こういった人たちは常に2人一組で仕事をし、機長と副操縦士とが時々立場を入れ替えることで機長の経験を伝達している。

とてもいい方法なのだが、部長とレジデントをツーマンセルにして主治医制にしても、たぶんうまくいかない。部長と交代した瞬間に文句が出るだろう。

旅客機が上空を飛行中、「ただ今の操縦は、卒業後2年目の新人の〇〇です」などとアナウンスが入ったら、乗客は平静な気分でくつろげるだろうか?やはり、職人の育成には何らかの形で客を「だます」ことが必須なのだろう。