暗黙知の伝達

親切な説明や、詳細なマニュアルなどで伝えられるものだけが知識ではない。

例えばある人間の顔を表現する場合、当人の顔が目の前にあれば「この顔だ」と説明できるが、その風貌を言葉だけで他人に伝えることは困難である。例えば誰かに自転車の乗り方を説明する場合、どんなに詳細に相手に説明したとしても、実際に自転車に乗って見せてみないかぎりは相手は自転車に乗ることは出来ないだろう。

こうした「認識」「身体的技術」などにかかわるスキルは、(例えば自転車の乗り方なら)ペダルへの足の乗せ方、体重の移動の仕方などの細かな要素によって構成されるが、それをいくら詳細に語ったとしても、自転車の乗り方のすべては絶対に伝わらない。説明をした当人は、確かに自転車の乗り方を知っている。スキルを習得している人間は何事かを“知っている”はずだが、しばしばそれは“記述不能な知識”になっている。こうした知識を暗黙知という。

暗黙知は、我々が経験を通して獲得した知識である。そのため、暗黙知は「経験知」とも言い換えられる。なぜそれは言葉では説明できないのだろうか?
 
経験知は、教科書や授業を通じて得ることが出来る記述可能な知識とは異なっている。経験知は、それを得た人の体験と密接に結びついている。経験を通して得た知識は、「なぜそうなったのか」の知識化を経ないで経験者の頭に蓄積されている。

人は「なぜ上手くいかないのか」を考えることはあっても、上手くいっている物事に対して「なぜ上手くいくのか」を考えることは少ない。このため、経験を通して得られた知識は記述可能な知識に変換されること無く、経験の集積として蓄えられてしまう。

こうした暗黙知を積極的に新人に伝えて成功したのが、日本ロシュという会社である(過激なMRが多いことで有名)。

この会社では、営業職の売上に非常なばらつきがあることに頭を痛め、どうやったらトップセールスマンのノウハウを他の営業に伝えられるかを検討した。結果、「営業ノウハウ」の「暗黙知」に関して、それを過度に形式的に言語化、デジタル化しないで、「暗黙知」を「暗黙知」のまま伝える方法を選択したという。具体的には若手の営業マンが現場に行く際、全社600人から選ばれた社長直属のトップセールスマンが同行し、その場の体験を通して若手に自分のノウハウを伝えさせた。

彼らエリート部隊はまず現場のMRマニュアルの廃棄を指示し、以後は現場でのコーチング、実際にいっしょに働き、体験を共有する形で自分達のノウハウを若手に伝え、最終的に2-5%の営業成績の向上をみたという。

徒弟制度のような形を介して、こうした暗黙の知識を伝えることは重要である。

一方で、師匠に相当する人間が自分の立場を守るため、ある種の知識を暗黙化することで安穏としている場合は厄介で、こうした人物というのは知識を伝達してしまえば自分の居場所が組織になくなってしまう。研修を行っていく中で時々遭遇する「意地悪な先輩」というのは大体この類だ。

いっしょに働くことで初めて伝えられるようなノウハウを抱えている人は、一人でも多くの仲間を作らないと仕事が自分に集中して潰される。このため、一見厳しい態度に見えても、下級生の教育には人一倍熱心だ。

持っている知識を文書化すれば、あるいは適切なエキスパートシステムが組めれば必要が無くなってしまう人物というのは知識の底が浅い。一見教育熱心なように見えても、実際にやっていることは「お気に入り」の下級生に知識を切り売りすることで、自分の手下を増やそうとしているだけだ。もともと売るに足る知識の総量も少ないので、自分のノウハウをやたらと出し惜しみするのが特徴だ。

こうした上級生を現場から排除しようと思ったら、同級生同士の情報の共有を徹底することだ。こういう手合いは下級生に突っ込む質問も数パターンしか用意できないので、お互いの情報交換を徹底すると、その人の知識を簡単に身ぐるみ剥ぐことが出来る。

「結局のところ、知識よりは手技か?」という声はあると思う。


「手技ははあとからついてくるから、今は正しい知識を」

「とにかく腕を磨け。知識なんてとりあえず上級生の言うとおりにしていればいい」

研修医を教育する際の方針について、この両者の対立は10年来続いてきた。自分のここ2年ほどの結論は、手技だ。

WEBは本当に便利だな、と思いながら数年、自分の知識をあらかた吐き出して残った残骸は、CVラインひとつ満足に取れない一般内科崩れでしかなかった…。このことにいまさらながらショックを覚え、自分は最近点滴の練習を再開した。