臨床の型の伝達

当院には昔、外来見取り稽古というものがあった。

救急外来をローテーションするレジデントは、1日のうち決まった時間は外来をやる上司の後ろに黙って立ち、ひたすら外来の様子をうかがったり、上司の処方箋書きを手伝ったりする。

下級生からの「あまりにも理不尽な時間だ」という声に押されて廃止されてしまったが、自分達が外来を回すようになった頃、当の下級生から「外来をどうやっていいのか分からない、カンファレンスをやってくれ」との声が聞かれるようになり、「見取り」の意味は結構大事だったのだなと思い直した。

見取り稽古というのは弓道部(他の武道でもあるのだろうか?)時代によくやっていた練習のひとつだが、要は師範の弓構えから残心、弓倒しまでの型、息合いといったものを皆で黙ってみている。べつにそんなに格好のいいものではなく、「今日僕見取り稽古」といっては道場の座敷で寝そべるための口実に使ったりもするのだが、まじめにやると参考になることも多い。

どんなものであっても、熟練した人の型というものは、その人の技量を凝縮したものである。最初のうちはなぜそうなるのかは分からなくても、同じ動作を何度もやっていると、自分がなれてきた頃にその意味がわかってきたりする。たとえ入門したばかりの人であっても、型を反復練習することで基本動作が自然に身につく。

外来をひたすら眺めるという練習もこれと同じことだ。

外来業務にはマニュアルに相当するものは無い。医学的な判断の領域なら、教科書にするのも可能であるが、外来の仕事の半分以上は患者さんとのコミュニケーションだ。医者の性格は全員違う。同じ疾患を診るにしても、ドクターごとに会話の流しかた、検査の出しかた、患者さんへの説明のやりかたといったものは皆違う。

ただ、そういったものを見続けることで、自分の中に応用できそうなスタイル、武道で言うところの「型」に相当するものがだんだんと出来上がってくる。

型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。意味がわからないとしても、それを繰り返し反復し、身体に技として身につけることが求められる。型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるもので、そもそもが教育的概念である。

外来の基本的な流れを「型」として学習することで、研修医はコミュニケーションの流れというものを理解するようになる。こうしたものさえ出来てしまえば、あとは自分の性格にあわせて外来のスタイルを作っていくことも出来る。外来をひたすら見るという行為は、べつに上司の外来スタイルをデッドコピーするのが目標なのではなく、最初はコピーからスタートし、慣れてきたらコピーから自由になるのが最終目標である。

人間は年をとると、過去の思いでは美化される。

自分達の歩んできた道は正しい道だった、当時のしごきに近い研修は嫌がらせなどではなく、実は正しい研修スタイルだった、正しい道をまっすぐ歩んできたのだから、自分の今立っている位置は絶対に正しい。

自分の歩みが間違ってきたことを認めるのは惨めだ。結果、年を食った奴の言うことは往々にして美化され、同時にもっと合理的な道を歩んできた後進への評価は歪められる。

型の反復学習は、悪用すれば必ず「しごき」の要素が入る。自分達の研修時代はそんなことは無かったと信じているし、またそうした見取りによる訓練を無くした下級生の外来には、何かが欠けてしまったと思う。

こうした印象が、年寄り(とは言ってもまだ30台だ)の、世代交代に抗うための戯言なのか、あるいはやはり自分の感想の方が正しいのかは、世代間抗争の当事者である自分には評価できない。

「型」を学ぶことが合理的なのか、あるいは不合理な過去の習慣なのか、こればかりは新しい世代の人たちが自分の価値観に照らし合わせて評価してもらうしかない。評価の方法は簡単だ。古い教育を受けた世代の30台半ば以後の医者の外来と、もう一世代あとのシニアレジデント世代の外来とを実際比べてみれば分かる。

旧世代の医師が明らかに何か優れているものを持っているように見えるならば、型の伝達には何かの意味がある。そうした人にくっついて型を盗むことが出来れば、自分の中に何か財産が出来るかもしれない。

両者に全く差が無いように見えるならば、「型」の概念自体が自分の妄言であったか、あるいはその施設のベテランには学ぶに値する型が無いかのどちらかだ。いずれにしてもその外来を見つづける行為に意味は無い。その時間を利用して、手技の練習に明け暮れるほうが何倍もましだ。