介護はどこへ向かうのか

慢性疾患の高齢者の介護は家族にとっては大変な負担である。不景気な世の中、みんなぎりぎりのところで生活している。身内にこうした人がいると、その人が倒れたときの家族の負担は莫大なものになる。どうすれば家族の負担を最小限に出来るのか。病院側からみた介護の理想解は明らかだ。


内臓の不自由な人は、身障者か特定疾患を取らせて療養型病院へ

家族にお金のあり余っている人は老人病院/老健

マンパワーに余裕のある家族は、立場の弱い人に泣いてもらって在宅介護

身内に政治家か福祉課の人がいるうちは、急性期病院で長期入院

どの選択肢が一番いいのかは明らかだ。医療を提供する側から見て、一番やって欲しくない方法をとればいい。急性期疾患を診る市中病院に長期間入院しているのが一番「正しい」方法だ。

回答は、一部の人は最初から知っている。社会的な立場の強い人であればなおさらだ。

力のある人にはお金もQOLもついてくる。誰かのコネクションを使って急性期病院に長く置いてもらう患者さんは、その人の年金を家族が丸々使える。自分達は何もしなくてもいいので、家族の顔も明るくなり、身なりも華やかになる。家族の持ってくる患者用のバスタオルも、ノーブランドのものから「Renoma」だったり「組曲」だったりといった、少し上等なものに変わってくる。

人的資源も経済力も無い家族は悲惨だ。数少ない家族の誰かが犠牲になって、その人をずっと看つづけるしかない。たとえ身内が大勢いても、助けが得られるのはむしろ例外的だ。

昔、7人兄弟の末の妹さんがずっと一人で面倒を見ていた女性が脳梗塞で入院したことがあった。残りの6人の兄弟の方も皆いい人で、医療者の置かれている状況をよく理解してくれていた。患者さん本人には結構大きな障害が残ったものの、何とか落ち着き退院の目処がついた。

「こうした人は自宅で診るのが一番です」
「後はわれわれが、自宅で本人のめんどうをみます」
兄弟の方々はみなこういってくれたが、面倒を見ている末の妹さんだけはなぜか反対。

妹さんから話を聞くと、「残りの人たちはお金も出さずに口だけ出してくる。自分はもう20年も介護を強要され、嫁にもいけなかった。」と。

このため、今後の介護方針について長男さんと相談をしたところ、今後誰が見ていくのかについて家族会議をひらき、何とかしますとのこと。

会議は開かれ、6対1で今までどおり妹さんが一人で見ることになった。順調に退院日が決まったので、我々も何も口を挟まなかったが…。

日本ほど社会保障制度の整っていないインドでは、身寄りのない子供達は乞食をして生計を立てるしかない。

乞食をするには"五体満足"だと不利になる。観光客から同情をかえないからだ。失明した子供、手足の無い子供は観光客からの同情が集中するため収入がよくなる。このため、子供達は目を潰したり、手足を切り取ったりして「プロの乞食」として生計を立てやすくするための手術を受ける。

「もらい」の多い通りは子供の人気が集中する。ここの場所は取り合いになるので、その場所を有料で貸して、子供から上がりをピンハネして生計を立てる大人がいる。

乞食の子供、乞食の元締め、子供に手術をする医師などは、観光客からの寄付金に寄生する形でひとつの生態系を作っている。

日本も同じだ。医師は行き場の無い高齢者に何とかして「欠点」を見つけ出し、これを利用して特定疾患や身障者、生活保護を申請してもらって患者さんの退院後の生活を維持しようとする。こうした申請を受理するかどうかは福祉課の胸先三寸、重症なのに門前払いを食らう患者さんもいれば、これは無理かな、という患者さんがなぜかすんなりと生活保護が通ったりといったことも経験する。

医者は患者さんの申請用紙をいじることで何とか申請が通るように頭をひねる。一方で窓口レベルでいろいろな「力」を加え、申請の通りやすさに手を加える、「生保の元締め」のような集団がいる。

医師は患者さんからの代償として診察料をもらうが、こうした人たちは寄付とか票とか‥いやこれは自分の妄想だったか?