研修医制度見直し

ローテーション方式の研修制度がもう見直されるらしい。地方公立病院への派遣医師の減少の問題が顕在化してきたため、医師派遣システムとしての医局の力を見直し、現在のような卒業生の入局科選択の幅の広い制度を元に戻すという。

この1年間、ローテーション制度による現場の混乱の中ですごしてきたが、この期に及んでこの制度を元に戻すのは間違っている。

医師に要求される技能は、年々高まっている。もはや、「自分は○○科ではないので分かりません」は通用しない。自分のところに来た患者さんに何らかの問題が生じた場合、少なくともその患者さんの問題を扱うのが最も上手な科はどこかを判断し、速やかにその科に患者さんを紹介できなければ、責任は患者さんを受けた自分のところに来る。

こうした判断を行うだけの知識、いろいろな科の上級生とのコネクションを得るためだけにでも、現在のローテーションシステムによる医師の教育は避けて通ることはできない。

問題点はもちろん多い。だがまだ運用1年目だ。新しいシステムだからこそ、使いこなしていくのはこれからのはずだ。ほんの1年試してうまくいかないからといって、いまさら元に戻したところで犠牲者が増えるだけだ。

近世のヨーロッパの軍隊の特徴的な敵陣突破の戦法は、銃火の中でも隊列を決して乱さないように訓練を施された、密集歩兵集団による中央突破であった。ヨーロッパの軍隊は、この方法でアジア・アフリカの軍隊を圧倒し、世界中に植民地を広げることができた。しかし技術革新の結果、この戦法は通用しなくなってしまう。

小銃の射程距離と連発性能の向上である。単発銃が連発銃となり、射程距離が100メートルから1000メートルを超えるようになると、在来戦法による歩兵集団の前進は耐え難いほどの犠牲を伴うことになった。とりわけ普仏戦争での歩兵の犠牲が甚だしかったため、両国はこの伝統的な戦法を廃止し、兵士は密集集団を組むのではなく、散開して遮蔽物を利用しながら前進するように改められた。

ところが非常に興味深いことだが、しばらくすると再び元に戻ってしまうのである。歩兵操典は再び改訂され兵士は昔どおり「肘と肘とを触れ合わせ、ドラムとラッパの響きとともに前進する」ことになる。なぜ、このような不合理なことになったのか。

散開する隊形では兵士は全体の状況を把握できず、孤立したことで士気が低下し、戦列からの離脱者が続出したのである。

結局、密集隊形を組む以外に全員を一つにまとめることは出来ないと判断され、この密集突撃スタイルの攻撃方法は変わることなく、第一次世界大戦では人類史上最も悲惨と言われる兵士の犠牲を生じさせることになった。

何かに似ていないだろうか。

患者サイドからの医師に対する要求水準が厳しくなったために、ローテーション制度が導入されるようになった。新しい制度により、研修医には特定の医局に対する帰属意識が薄くなる。

結果として勤務の厳しい地方病員への職員のなり手が減少し、従来の医局入局による研修方式への回帰が喧伝される。こうなったあとの状況は明らかだ。第一次世界大戦と同様、患者さんからの高まった要求水準に応えられない医師の屍の山が築かれるだろう。

現在のローテーション制度をこのまま放置しておいても、数年以内には医師の配分は元通りになるはずだ。

得体の知れないものに対する恐怖は抑止力を望む。ローテーション制度という体験したことのない制度を導入するに当たり、大学当局は現場の混乱に対する恐怖があったはずだ。

イラクの平和維持軍をみれば分かるように、「戦闘に対する抑止力」としての兵士の数は、「戦闘に勝つ」ための兵士の数よりもむしろ多く必要になる。圧倒的な戦闘力の差を武装勢力に見せつけることで、戦闘行為を行う気力を削ぐためだ。

現在大学病院に戻されているマンパワーも、実際の戦闘力として期待されている部分とは別に、ローテーション制度という得体の知れない制度で、何かトラブルが起きないようにするための抑止力として期待されている部分もあるはずだ。

ローテーション制度を1年間施行してみて、実際にこの制度を運用していくために必要なマンパワー、新しい制度により生じた問題点はある程度明らかになった。正体が分かってしまえば、抑止力は不必要になる。大学当局としても、不必要に多くの人材を手元に確保しておく必要はなくなる。

金を出す者は、本来一番えらい。お金を出す人が「お前に金だけは恵んでやるから、これだけはするな。それが守れないかぎり金はやらない」という姿勢を貫くならば、金を出す人が一番強い。
全ての医師に対してお金を出しているのは、結局のところ厚生省だ。

下々から何を言われても、「うるせえ、働け。」と突っぱねれば、あと2年もすれば人は勝手に充足される。なぜその一言が言えないのだろう。