電撃戦的治療

疾患の急性期は、対処をしないと患者はどんどん悪くなる。

医師と病気との戦いは、患者さんの体が戦場だ。力強い治療を行えば、より確実に敵を追い出すことが出来るかもしれない。しかし、片端から核爆弾を投下しようものなら、その土地は二度と使い物にならなくなる。

ここでいう「核爆弾」とは、例えば気管内挿管や補助循環といった侵襲的なデバイスステロイドや強力な化学療法、ペネム系の抗生物質といった強力な治療など。これらは人体に対する治療効果は大きいが、一方で新たな出血の合併や日和見感染、耐性菌の出現などの副作用も大きい。

医師は「戦場」に対するダメージを最小限に抑えつつ、病気に撤退してもらわなくてはならない。

従来行われてきた戦術は、ピラミッド型アプローチと呼ばれているものが典型的だ。病気の性質をまずはじっくりと見定め、「弱い」薬、作用も少ない代わりに副作用も最小限の薬剤から投与を開始、病勢に応じて徐々に薬を「強い」ものに変えていく。

この方法は確実なものではあるが、欠点も多い。最小限の治療が「当たった」場合はいい。最小限の副作用で患者さんは元気になり、退院できる。

一方で、第一撃が外れたときは悲惨だ。患者さんの状態は時間とともに悪くなる。より強い治療は、それだけ副作用も強くなる(副作用が少なく、強い治療があれば最初からそうするので問題はおきない)。そうした治療を考える頃には患者の状態は悪くなり、そこに副作用の強い治療が加わる。状態が悪いから、せっかくの切り札も期待したほどには効果が出ない。「最初から、この治療をやっておけばよかった…」と後悔することになる。

軽い治療から試す方法論というのは、一見患者さんにやさしいようでいて、実は患者さんにある種のギャンブルを強いている。

電撃戦的な治療というのは、病気との戦いの概念に時間軸を持ち込む。

電撃戦というのは、第二次世界大戦初期にドイツ軍がとった軍事戦術を指す。これは軍隊を迅速に進撃させる事により、敵に防衛線を構築する暇を与えずに戦線を突破する戦法である。

従来の戦争というのは、お互いが塹壕を掘り、将軍の号令の下突撃を繰り返す消耗戦だった。この方法は、物量の多いほうに確実な勝利をもたらすが、多大な犠牲を伴った。

当時の新技術を基礎として、新たに電撃戦という方法が考案された。これには戦車や飛行機といったハイテク兵器の活躍ももちろんだが、大きかったのは通信だ。無線通信の発達により、ドイツ軍は敵が行動を開始する前に戦略目標を破壊し、敵陣深くに侵入することができた。この際、進撃する部隊の側面防御には気を使わず、その分、進撃速度を少しでも上げる。

従来の戦法と最も異なるのは、指揮権の権限委譲である。現場指揮官は、従来の中央集権的な指揮系統に頼るよりも、自らの判断に従うよう奨励された。

副作用も多いが「強い」治療は、患者の体力に予備力が残っている初期ならば、十分に安全に使用できる。病気を「じっくりと見定める」間にも、時間はどんどん過ぎていき、患者の具合は悪くなる。

ならば、その過程を全てスキップしてしまい、その分稼げた患者さんの予備力を「強い」治療に耐えることに使ってしまおう、というのが電撃戦の考えかただ。具体的には患者さんの来院と同時に、そのときの症状からその人に必要と考えられる物量を大まかに予測し、それを入院初期に全て投入する。

例えば、「発熱+呼吸困難」の患者さんの治療を考えてみる。

診断はいろいろ考えられる。肺炎、敗血症全て、ケトアシドーシス、肺塞栓などの可能性もゼロではない。間質性肺炎膠原病心不全の可能性も否定できないが、まずはこうした「相手を見定める」思考を止め、考える前に検査をオーダーする。

診断は機械的に行う。何も考えずに血ガス、生化スクリーニング、具合が悪そうならCT。鑑別疾患を考えるのは時間が惜しい。どうせやることは一緒なので、何も考えずに行動する。

結果がそろう前に治療を始める。治療方針は「松」「竹」「梅」の3通り。「呼吸困難+発熱」に対するプロトコールは、あらかじめ考えておく。ゆめゆめ患者さんごとに調整しようなどとは考えてはいけない。考えるひまがあったら、行動する。

松コース:気管内挿管、第3世代セフェムにステロイド、入院はICU
竹コース:酸素5lマスク、セフェムにマクロライド内服、入院中に必ず赤沈、胸CTをフォローする。
梅コース:酸素なし、抗生物質は元気ならキノロン内服、ご飯も普通に出す。
どの方針でいくにせよ、まず患者さんへの挨拶と同時に、名刺代わりに解熱薬を服用してもらう。

「松竹梅」の決定は、患者さんの症状とバイタル、年齢などから、戦いに必要な物量を推定して決める。「本当は松だろうけど、竹で行ってみようかな…」などと、後ろ向きなことは考えてはいけない。病気側の予想の斜め上を行く気合で、方針を選ぶ。

今までの治療方針が高級レストランの一流シェフのそれなら、これはクソ忙しい定食屋の方針だ。手荒いが、スピードだけは一流シェフに遅れをとることは無い。マニュアル化された定食なら、わずかな訓練で同じものを作れるようになる。技術の再現性が高いなら、若手の医師が実戦で活躍できるようになるのも早くなる。

「検査値」「画像」のような客観的な情報の増加は、現場の研修医とスタッフとの情報交換を円滑にする。「患者さんがおなかを痛がってます」では現場に行かないと何が起きているのか分からないが、「AMY6600です」と報告があればまず膵炎だ。「原因不明の腹痛があったらAMYを含めた生化スクリーニング」とマニュアルに書いておけば、あとは現場が採血してくれる。

マニュアルの発達は、現場の裁量権の拡大につながる。治療全体の流れを定食化することで、現場レベルで対応できることは増える。患者さんの治療はますます早くなり、それだけ病気側に付け入られる隙は減る。

一番問題になるのは、患者さんごとに必要な「物量」をどうやって予想するかという部分だ。

今のところ、このあたりは「適当」あるいは「勘」で決めている。

情報を蓄積すれば、例えば患者さんの年齢、基礎疾患、どこの施設から来たのか、バイタルサイン、体重や栄養状態といったものから症状ごとの重症度をスコア化し、それぞれの重症度ごとに考えやすい鑑別疾患を決定できそうな気がする。

今はまだそんな便利なものは無いので、患者さんの入院初期には、自分の周りはCPRでもおきたような騒ぎになる。

日常臨床の経験を積み重ねていけば、かならず一定のパターンが生まれる。こういった診断チャートの作成こそが、「総合診療」をうたう医師の仕事なのではないかと思うのだが…。誰かえらい先生方、作ってくれないだろうか。

EBM論者がはやらそうとしているのは、テーラーメード治療と呼ばれているものだ。

患者さん一人一人は全て違う人間であるという立場にたち、同じ病名の人であっても、その人の人種、性別、年齢、重症度などからもっとも適切と考えられるエビデンスを探し、それにしたがって治療プランを立てる。

医師の頭が良くないと出来ない方法だし、また時間がかかる。

自分がやりたいと思っているのはこれとは全く逆。患者を悪くしているのは医者が余計なことを考えるからで、なるべく頭を使わないで患者さんの治療プランを立てる方法論は無いものか、とこの数年あれこれ考えている。

今発表されている「EBMに基づいた」ガイドラインなどというのはEBMの考え方に泥を塗るようなものだとは十分に承知しているのだが、一方で今のガイドライン乱発の傾向を進めていけば、いつかは自分が考えているような治療の流れになるのではないかと期待してもいる。

どちらが正しいのか(時間があるなら、テーラーメード治療のほうがいいに決まっているのだが)分からないが…。