共通の敵をつくる

大きな問題、マンパワーを喰う問題を解決するのは個人の力では限界がある。専門家集団によるチームは、思考のパワー、アイデアの豊富さといった部分では、個人とは比較にならない力を持っている。

専門家集団による治療はすばらしい。大学病院級の施設には、ほとんど全ての疾患に対する専門家がそろっている。数は力だ。何かの問題を解決しなくてはならない場合、一人で考えるよりも、多人数で考えたほうがより正解に近い解答が出せる。専門家によるチームでは、患者さんに何の問題が生じても、その対策方法が瞬時に示される。うまく運営されたチームならば、議論にかかる時間は一瞬だ。

一方で、多数の専門家の集団は、一人の患者さんという個人の問題を解決するには、あまりに強力すぎる。公園で砂山を作るのに、シャベルではなく重機を持ち出してくるようなところがある。

多人数で議論して得た治療方針は、しばしば「センス」が感じられないものになる。検査の回数は増え、治療方針の決定のプロセスは複雑になる。患者さんに眠剤ひとつ出すのにも複数の意思の決定を経ないといけなくなり、そんな瑣末なことにも意見の対立を生じたりする。

集団の中での対立があると最悪だ。誰も責任は取りたくないが、旗は振りたい。自分の専門領域に対して他科から余計なおせっかいは受けたくない。必要な検査を行おうにも、肝心のその科がつむじを曲げると話が前に進まない。自分達としては「緊急事態」と思って相談しても、「じゃあ、1週間後に予約を入れておきます」という返事が返ってきたりする。

集団作業における欠点を減らし、集団の力を最大限に発揮するためには、集団を家族同然の「チーム」に仕立て上げなくてはならない。

何か共通の目的、共通の話題や思想で固められたチームの意思決定はすばやい。よくできたチームでは、メンバーは皆友人同然の付き合いかたになる。赤の他人の意見は聞きたくないが、友人の意見ならばしょうがない。妥協はすばやく行われ、チームの意思決定は軽快に行われる。

このとき、チームの話題や目的は、患者さんに関するものであってはならない。患者さんの病気の問題は、各々の専門領域にかかわる問題だ。チームメンバーが「専門家」である自分を思い出してしまうと、チームは混乱する。皆が自分の「専門性」にかけて最良の答えを出したい。意見の対立上等。妥協した意見は絶対にいいたくない。議論の流れは錯綜し、決定は先延ばしになる。

患者さんの病気は進行する。とりあえず病気の治療に関して必要な専門の科の医師を集めても、懇親会を開いている余裕は無い。多少の歪はあっても、初対面同然の人間同士が古くからの友人のように振舞うチームを作らなくてはならない。

最も簡単な方法は、共通の敵を作る方法だ。

初対面の人間同士、いきなり趣味の話など始めても気持ちが悪いだけ。同級生でもなければ、共通の話題など探せるわけも無い。大きな病院の職員同士、いちばん簡単なのは「この患者さん、第○内科に検査を頼んだんですけど、奴ら断りやがったんですよ…」といった話題だ。

だいたい、どこの病院でも仲の悪い科、嫌われている科や医師というのはだいたい決まっている。どこかの科に協力を求めるとき、こうした人たちを「共通の敵」として話題の冒頭に振り、それから自分達の患者さんの話題を持ち出すと結構うまくいく。

相談を受けた専門家にとって、この主治医は敵に被害を与えられ、自分に助けを求めてきた被害者だ。助けを求めてきた相手は、自分の専門性にかけて助けなくてはならない。専門家は親身になって話を聞いてくれる。

子供じみた方法論だけれど、子供じみているからこそうまくいく。

優秀な専門家に、「大人」の人格者などいない。

技術系の世界はどこも同じだが、技術の優秀さと人格の高尚さとは、しばしば反比例する。もちろん例外は多数知っているけれど、多くの場合は人格的に優れた人には技術の優秀な人はおらず、一方技術が優れた人は往々にして極端な負けず嫌いで、子供に近い人が多かったりする。

共通の敵とか非難する対象を介して形成したチームには、馴れ合いのような空気が生じ、話題にも予定調和的な結論(だから○○科は駄目なんだよ…とか)が見えてくる。非常に不健全な人間関係に支配されたチームだが、一方で決定は早く、チームの機能は最大限に発揮される。

共通の敵と、それ以外の味方からなるチームという二元論的な世界で暮らすのはしんどい。一歩間違えると自分が「敵」と認定されたりする。だが、しょせんは一時のものだ。患者さんさえ目論見どおりによくなってくれれば、少々の人間関係の不調和など安いものだ。

この数年で何人かの友人、そして「信頼」というものをだいぶ失った気はするけれど…。