トラッカーになろう

軍の特殊部隊などのチームは、各々が分担する役割が違う。

コマンダー:チームのリーダー。通信機器も携行する。
ブレイカー:ドアブリーチャーなどとも呼ばれる。突入の際のドアの破壊を担当。
シューター:突入要員。基本的にすべてのチーム員はシューターである。
EODスペシャリスト:爆発物の処理にあたる。
スナイパー:屋外に配置され狙撃を行う。
病棟に配属されたばかりの新人は、現場で働く医師集団の働きぶりに驚く。

自分の実力ではあの人たちのように働けるわけが無い。「チーム」の中には自分の居場所は無い。自分などいないほうが、チームの仕事ははかどるのではないかと思う。

新人の中には、配属されていきなり突入要員として活躍できる奴もまれにいる。だがほとんどの新人にはそんなことは出来はしない。

そうした新人でもチームの一員として参加でき、また他のチーム要員からその仕事ぶりを感謝される役割が存在する。トラッカーである。

トラッカーという言葉は、軍の特殊部隊の中では追跡の専門家のことを指す。ここでは、情報収集係といった意味でこの言葉を使っている。

トラッカーはチームの全体像を見渡しながら、臨床の現場で入ってくるあらゆる情報を収集し、それをカルテに記録して整理し、いつでも再利用できるようにする作業を行う。

ラッキングは非常に重要でありながら、現場で突入役をやっている人間には遂行するのは難しい。

現場仕事になれた人間は、突っ込むのは得意でも振り返るのは不得手になっていく。ついつい記録はいいかげんになる。突入役は、前にうまくいったときはどうやっていたのか思い出さないままに次の仕事にとりかかり、無駄な業務の重複や失敗を生じてしまう。

研修医は優秀なトラッカーになれる。現場仕事に接する経験が少ないからこそ、偏見無く記録を書ける。トラッカーは単なる記録係ではなく、チームが前進するための推進力を作り出すための仕事でもある。

上司が悩んでいるときに、「先生、○○さんの時はこうしてましたよ」と言ってもらえると、実はとてもありがたかったりする。下級生にこんなことを指摘されれば確かにむかつく。だが冷静に考えれば、その意見を言ったのは過去の自分だ。その進言は非常に参考になり、思考の遠回りを避けることが出来る。研修医の記録能力が信用に足るものであると自覚できるようになると、チームは後の憂い無く突っ走ることが出来る。優秀なトラッカーがチームにいてくれると、チームの仕事の能力はますます向上する。

記録を行う際、以下のような部分に注意。

偏見無く黙って記録する

特に研修期間を終え、他の病院に移った際にこれを忘れる。前の病院と違う治療方針、違う考え方を見ると、とくに「優秀」といわれている研修病院から来た奴ほど今の施設の考え方を「改良」しようとする。新人がこれをやってもむかつかれるだけ。チームの雰囲気は悪くなり、チームを突っ走らせるトラッカーとしての存在意義もなくなってしまう。

間違って見える方法は、自分が間違っているように見えるだけで結構うまくいくのかもしれない。
間違っている方法をうまく働かせる代償機構が、その施設に存在するのかもしれない。

偏見無く記録すれば、こうした部分を学べる。最初から方針を変えさせようとすれば、全てが台無しになる。就職してから現場になじむまでの間は、黙ってひたすら記録する。

知識を得た時の状況も記録する

研修医の大事な能力のひとつは、いつでも上級生の記憶の引出しを開けて見せることだ。

上級生の記憶というのはいいかげんなもので、自分で教えておいて、1週間もすればそのことを忘れる。あとからなぜそうなのかを確認しようにも、「俺、そんなこと言ったっけ?」などと逆に聞かれるのがオチだ。

例えば「ショック患者にはとりあえずラクテック全開」という知識を教えてもらったときは、メモに書くときに日時と状況とを一緒に書く。例えばこんな風に書いておく。

ショック患者にはとりあえずラクテック全開。○月○日。○○先生。○○さんがERでCPRになったとき。
後から上級生となじんだとき、メモを見直して「先生、○○さんのCPR の時、なんでラクテックだったんですか?」などと聞いてみる。

「ショックだから」とだけ応える上級生もいるかもしれないが、たいていの上級生は、もう少しいろいろなことを語り始める。そのとき何を考え、何を意図してそうした方法論をとったのか、他にどういった選択肢が考えられたのか。

記憶の引出しを他人に引っ張ってもらうのは、結構気分がいい。「こいつは自分の話を聞いてくれている」という思いがあると、余計に親切に話しはじめるものだ。

知識と状況を一緒に記録しておくことで、実践的な知識の習得と、記録の仕事とを別々の時間に行える。現場の空気を共有した人間同士なら、そのときの空気は文字に記録できる。何も言わずに黙って記録だけしていても、優秀なトラッカーは、後から議論の主役になることが出来る。




優秀な追跡者に大切なものは、まずは足と耳。物事をまとめる能力は、後から気合で身につける。

常に現場に赴き、現場の中心の患者さんの生の声を聞き、上級生のお喋りに耳をそばだてると、研修医はきっと早く成長できると思う。

自分はこうして成長してきた…わけが無い。

就職早々空気を読まずに、余計な茶々を入れては「先生黙ってて」と怒られてばかり。

当院にはかつて、前の晩に書かれたカルテをスタッフが赤ペン先生よろしく添削するという習慣があったのだが、自分のカルテには一言

poor chart
と書かれているだけだったり。

研修医は優秀なトラッカーたるべし…というのは、そうしたらよかったという経験ではなく、自分はそうなれなかったという後悔と、そういう人が自分の周りにいてくれたら激しく便利という願望とが半々ずつ。

上の文章を信じてトラッカーを目指すことで本当に幸せになれるのか、自分には何の保証もできない。

誰かなってくれる人、いませんかね?