共同作業を達成する能力

一般内科医は、患者さんの問題点を「系」で考える。入院のきっかけになった問題は、必ず次の問題を引き起こす。内科医は、脳梗塞になった患者さんなら誤嚥性肺炎や脱水を心配し、心筋梗塞で入院した人ならば、今度は合併する腎不全や心不全に思いをはせる。

入院した時点での患者さんの問題点はひとつであることが多いのだが、忙しい病院ほど先を読んでいかないと、合併症でドツボにはまる。

医師は専門性が高まるほど、患者さんの問題点を「点」で考える。専門家は自分の専門領域でベストを尽くす。専門領域の治療に全力を投入すれば、問題点が自分の領域を越える前に治療は完了する。全身の合併症を生じるようなら、あとは一般内科に任せる。こうした姿勢は専門家としては全く正しい。

一般屋が「負けた」ときのことを考えながら治療プランを練る一方、専門家はその問題が大きくなる前に状況を駆け抜けることを考える。一般内科と専門家とがお互いの立場を理解しあい、患者さんの同じ問題を、別の立場からアプローチしあえば、理想的な共同作業が実現できる。

現場はこんなに上手くはいかない。

一般内科は高齢化した患者さんを老健に紹介するので手一杯。専門科から回って来た患者さんを診る余裕はなく、「糖尿病ぐらい、そちらで診てくれませんか?」などと、専門家に一般内科の仕事を求めてしまう。専門家は持ち前の足の速さを失い、患者さんには合併症が生じる。

売り言葉には買い言葉。一般内科から患者さんの紹介を受けたとき、「その患者さんについて自分の領域で何が出来るのか」を考えてくれるのが、本来の専門家の役割。だが、雰囲気の悪くなった病棟では、「その患者さんは、当科では受けかねます」とまるで公務員のような答えが返される。共同作業は破綻し、残るのは患者さんの押し付け合いだけになる。


前に勤めていた病院には、「内科の言葉で会話する」歯科口腔外科の先生がいた。

歯科の先生が心カテをしたり、CTを読影したりするわけではないのだが、なんというか、内科の「ノリ」というものをよく理解してくださる方だった。

相談するのは患者さんの「歯」の問題だけなのだが、歯の治療をして下さるだけではなかった。その人に歯を入れることでどういった効果が期待できるのか、会話や食欲への影響、本人の意欲や体力、管理能力などを考慮して治療方針を提案される。場合によっては「歯を全部抜く」という選択肢もあり、口腔内の清潔や誤嚥の問題、果ては全抜歯後の誤嚥性肺炎の合併の低下といった論文を教えてくれたりした。

あくまでも「歯」の専門家であるというスタンスは崩さず、治療の全体の流れは主治医である内科に口を挟むことは決してなかったが、その先生は歯を通じてたしかに全身を見ていた。

共同作業を円滑に行う能力というのは、何かの問題点に対して、自分達の側から以外に、相手の側から見ることができる能力なのだと思う。

問題点に関する知識を持つのと、問題点を違った立場から見ることが出来るのとはよく似てはいるが完全にイコールではない。

例えば自分が医療過誤について考えていたとき、工場の管理をしている方とそんな話題になったときは、シックスシグマなどという話題を教えていただいた。交渉ごとのテクニックについて悩んでいたとき、糖尿病で入院していたテキ屋のおじいさんから手ほどきをうけたこともある。

「共同作業」などと胸を張って言えるようなレベルのものではないが、立場は全く違っていても、両方の「専門家」はこちらの問題点を自分の立場から理解してくださり、短時間で自分の求めていた「正解」を教えてくれた。

自分のような一般内科崩れが大きな病院でやっていく上では、他科との共同作業は欠かせない。こうした相手の立場からものを見る能力はとても大事なものなのだと思うのだが、最近は状況が違ってきている。

大学病院のような場所でさえも病棟は行き場のない高齢者であふれ、たとえ専門家が神速の治療を実現しても家族は「もっと置いてくれ」の一点張り。あまつさえ「主訴:入院希望」の患者さんが夜中に救急車で来院することも珍しくなくなってきた。

こうなってしまうと、内科に求められる専門性とは「この人、うちで引き取ります」の返答のみ。共同作業は再び壮絶な押し付け合いに回帰する。

もう一般内科をやる時代ではないのかもしれない。