専門外の治療は楽しい

自分の専門領域は一応循環器だが、趣味(?)でいろいろな科の話題に首を突っ込む。

血液ガスの解釈、人工呼吸器の管理、電解質以上の管理や補正。最近では慢性疼痛の治療など。

専門領域以外の話題に口を挟むのは楽しい。上級生の特権で、下級生の「専門家」(様々な科にいる)も、こちらの話題にしぶしぶ付き合ってくれる。上司が素人カラオケを無理に聞かせるようなものだ。

素人の意見は面白い。専門家の治療手段は保守的で古臭く、意見を聞いても「驚き」がない。門外漢である自分のほうが、その専門家よりもよっぽど新鮮な意見を提出できる。素人が専門家と話していると、「この人、本当に勉強してるの?」といった気分になることすらある。

実際にはもちろんそんなことはないのだが、自称「専門家以上の素人」が出現するのは、素人と専門家との勉強に対する考え方の違いによる。

成功率7割の治療手段が発表されたとして、7割に効果があると喜ぶのが素人。3割も失敗する人がいると悲しむのが専門家。
専門家の知と素人の知との違いは、前者が帰納法的な知であるのに対して、後者が演繹法的な知であることだ。

素人は演繹法を好む。理論と理論とを掛け合わせ、新しい考え方を思いついたら即MedLineを検索。1例報告で同じような思想の成功例を見つけたら、すぐ臨床応用を進言。まわりの人間はまだ誰も知らない方法。周囲は驚き、そのアイデアが成功すると、その素人は賞賛される。

専門家はそうは行かない。自分の意見は、「専門科」の意見だ。間違ったことを口にするのは許されない。素人のヨタ話と、専門家の意見とを分けるのは自分で積み重ねてきた症例の差だ。

専門家は、やってみたけれど効果のなかった症例を、自分のうちに積み重ねている。無効例、失敗症例は蓄積される。専門家の意見は暗くてつまらないものになる。専門家が推薦する方法論は「固い」もの、成功した症例をいくつも重ね、本当に効果が実感できたものしか推薦できない。

帰納的な思考方法は保守的になる。最近の医者に対するバッシングの嵐の中、専門家が新しい治療を提案することはますます難しくなっている。思考を進歩させる機会は臨床の現場からは失われ、固い治療、ガイドラインに乗っ取った治療を推薦するだけの専門家が増えてきた。

学会での定説、ガイドライン墨守することが目的化してしまった専門家は、新しい意見、素人のヨタ話を「専門家の見地から」批判するようになる。その専門性は新しい方法論を批判すること、その領域の権威を賛美することに発揮されるようになる。そうなると、もはやその人に進歩は望めない。

技術者は、進歩を指向しなくなったら終わる。昔の先生は偉かったなんて言ってる暇はない。