それは患者であって人ではない

やることは決まっている。たぶんこの病気だ。経過も理学所見も、まず間違いなくその疾患を示唆している。すでにその病気に対して正しい治療は開始され、後数時間もすれば症状は落ち着くはずだ。

それでも本当に正しいことをしたのか。自分の下した決断は合っていたのか。実は診断名を間違えているのではないか。自分よりももっと上手くやれる医者は大勢いるのではないか。何年経っても悩まずに仕事をすることはできない。

急変患者を診察するのは、戦場で殺し合いをするのにどこか似ている。

何度やっても患者さんの「先生苦しい…」という声に慣れることはなく、いつまでたっても自分のやったことは正しいと、確信が持てない。

医師は常に患者を完全に治療することを期待されている。判断はすばやくなされなくてはならず、じっくりと考えているだけの時間は無い。医師の判断は、たとえそれが正しいものであったとしても患者に利益を与えるとは限らず、とくにその判断が正しくなかった場合、患者さんが死んでしまうことだってありうる。かといって、ためらってばかりいては結局のところ患者さんは死んでしまうかもしれない。

やらなければやられる。かといってやったところで、助かるとは限らない。

急変患者に立ち会った医師は、こうしたジレンマの中で何らかの決断を下し、患者さんの病気の治療方針を立てなくてはならない。冷静な判断などできる状況ではない。それでも冷静な判断をしなくてはならい。

急変に当たったときは焦る。ましてや、目の前に苦しんでいる人がいて、その人から「苦しい」と言う声を聞いたときには。何とかしなくてはならない。だが自分のやったことが目の前の人を本当に「何とか」してくれるのか、あせっているときは一向に確信が持てない。何とかして、平常心に返らなくてはならない。

医学的な決断は、「苦しんでいる人」に対してはためらいや逡巡を生じる。一方で「患者」に対してならば、医師はためらいなく自分の治療プランを実行できる。

目の前のそれは「患者」であって「人」ではない。

急変に当たって何をしていいのか分からなくなったとき、苦しんでいる人間を「患者」にしてしまえば、医師は現実に立ち返って冷静に考えることができる。

何らかの手技を患者さんに対して行うことは、医師が現実に戻るための有効なスイッチとなる。

自分の場合、スイッチは気管内挿管だ。

医者の目の前が真っ白になるような急変をした患者さんは、ほとんどの場合、何らかの気道の確保が必要になる。気管内挿管をすることで、まずは患者さんの「苦しい…」という声を聞かなくて済む。気道さえ確保してしまえば、バイタルさえ許せば十分な沈静もかけられる。

目の前の「苦しんでいる人」は、舞い上がった医者の頭でもどうにか治療できる「患者」へと、徐々に近づいていく。

気管内挿管を成功させたという医師の体験もまた、医者の頭を冷静にしてくれる。小さな成功体験の積み重ねは、急変に行き当たった医師が忘れていた自分の技術に対する信頼、経験に対する信頼を思い出させてくれる。

冷静になった頭は、正しい治療方針を決定したり、あるいはすでになされている治療の流れが正しいことを確認してくれ、医師はようやく落ち着いて治療を続けることができる。

この現実に立ち返るスイッチは、研修を受けた病院で違ってくる。

スイッチがCVラインの人もいる。動脈ラインを取ることで、現実に戻ろうとする医師もいる。

ICUなどでさまざまな科の医師が合同で仕事をする際、最終的には気管内挿管、CVライン、動脈ラインなどは全て入ることが多いが、どの順番で入れていくのかは、主治医によってかなり異なる。どの順番で手技を行っていくのか、みんなが自分が正しいと思う中で、この順番をめぐって喧嘩になることすらある。

ちゃんと調べたわけでないので単なる当て推量なのだが、この順番というのは、主治医が研修医時代に手技を習った順番に等しいのではないだろうか。

人間、焦っているときは本能的に自分の原体験に立ち返ろうとする。焦った医師は、研修医の頃から今までの期間の経験を思い出すことで、現実的な思考に戻ることができる。

修羅場になればなるほど、きっと研修医時代の経験というものが生きてくるのだと思う。