早く心臓が止まればいいのに

この患者さん、早く心臓が止まらないかな。そうなれば、自分にも何をすればいいのか分かるのに。
ACLSコースの受講を終了した新人研修医は、しばしばこうした不埒な考えをもって救急外来に降りてくる。

苦しんでいる人を診察するのは恐ろしい。まず苦しんでいる原因がわからない。原因が分からないから、何をしていいのかも分からない。分からないものは、怖い。

患者さんに会うのが怖いと、いつまでたっても救急外来の雰囲気に慣れない。患者さんは教科書どおりの主訴や所見でやってくることはほとんど無く、診察に時間がかかるならば怒声が飛んでくる。患者さんに会うのはますます怖くなる。

ACLSコースは、新人医師が急患に当たるときの「ためらい」や「恐怖」を、非常に効果的に取り去ってくれる。

救急外来に来る患者さんの中で、間違いなく一番重症なのは心肺停止の患者。こうした患者に対してまずどう行動し、次に何を考えればいいのか。教科書どおりの手順は「まず何を考え、それから行動する」。ACLSコースでのCPRプロトコールは、この逆だ。まず「どう」行動すればいいのかを教えてくれる。

もちろん理論も教える。しかしACLSの教育の本質は、最終日に行う「メガコード」と呼ばれるシミュレーションだ。目の前には心肺蘇生用のリアルな人形。周囲からはモニターの音。自分が何かすれば、それはすぐに患者さんのモニター波形の変化となって現れる。そういった環境の中で、インストラクターが一言「どうしますか?」。その瞬間人形はまるで実際の人のように見え、非常に緊張する。

こうしたシミュレーションで教育を受けると、実際の心肺蘇生での緊張感をかなり正確に想像できるようになる。リアルなシミュレーションで訓練を受けると、本当のCPRのときにもためらい無く体が動く。

戦争で兵士が敵と遭遇したとき、意外なほど多くの兵士が「撃たなければ殺される」という状況になっても発砲しないことは、以前から問題になっていた。

第二次世界大戦では、アメリカ兵は15から20%しか敵に向かって発砲していなかったという。発砲しようとしない兵士達は別に逃げ隠れしているわけではなく、むしろもっと危険な任務、通信や救護、仲間の救出といった任務を買って出る傾向があったという。それでも敵に対して発砲はしない。日本兵の突撃を受けたときでさえ、やはり同様の割合の兵士が発砲しようとしなかったという。

大戦後、この低い発砲率は問題になり、様々な訓練方法が工夫された。朝鮮戦争からベトナム戦争に至り、この兵士の発砲率は20%台から95%にまで引き上げられた。

兵士の発砲率を引き上げたのは、巧妙に作られたシミュレーション型式の射撃訓練だ。

以前の兵士は草地に腹ばいになって、丸い標的を撃っていた。ところが、実際の戦争では「丸い標的」を持っている敵などいない。

現在の兵士はタコツボの中に何時間も立ち、定期的に現れるヒト型の的を、反射神経で撃つ練習をする。丸い的ではなくヒト型の的。当たると血が吹き出るようなものも使われる。ためらいなく的を撃ちぬいた兵士は賞賛され、命中率によっては休暇の日数が増えたりする。

殺人行為の慎重なリハーサルを積むことで、兵士は必要なときにためらいなく撃つことができるようになる。

ACLSの訓練も、これに似たところがある。リアルなシミュレーション、行動の条件づけの強調、メガコードを上手くこなした研修医はインストラクターから賞賛され、終了時には終了証が手渡される。

急変が生じたときにはまず現場。この原則は今も昔も同じなのだが、現場に着いても何をしていいのか分からない研修医は、現場に突っ込むのに非常な恐怖にかられる。ところがACLSを学んだ後は、「心肺停止」の患者に限っては体が動く。急変の鉄火場は訓練どおりの動きで乗り切ることができ、汗まみれでCPRをした後は、まるでスポーツでもしたかのような爽快感が残る。

このCPR後の妙な高揚感は、ACLSコースの終了後の合格証書をもらった時の高揚感、受講中に行われる懇親会での連帯意識がCPRに伴ってフラッシュバックするからではないかと邪推するのだが、いずれにしてもACLSという訓練コースはいろんな意味でよくできている。

ところが救急外来には、心臓が止まっていない人、心臓が止まりかけてはいるが動いている人もたくさん来る。こうした人たちに対しては、ACLSでの訓練は無力になる。「早く心臓が止まればいいのに」。この非常に矛盾した感情は、受講後2週間ぐらい続く。

それでも、対応できる疾患が心肺停止一つとはいえ、何をしていいのか分かれば、CPRの修羅場でも自分にできることが見つかる。その場で存在意義を見出せる人は、そこで安住できる。救急外来の研修の初期にACLSを受講した研修医は救急外来が好きになり、楽しく勉強できるようになる。

ACLSの講習を終えた後は自分がとても成長した気がするのだが、実際には心臓が止まった人を戻すよりも、心臓が止まりかけている人を止まらないようにするほうが何倍も大変で、また学ばなくてはならないことが多い。ACLS合格はゴールではなく、いわば救急外来のパスポートのようなもので、現場の勉強はそこから始まる。

去年の研修医が、そろそろACLS受講。皆さん頑張ってください。