「患者のため」というロジックボム

市中病院で働くのにはコツがいる。市中病院は組織がしっかりしていて、チームでの作業がやりやすい。その病院のルールの中で働いているかぎりは、周りの人が自然に手伝ってくれるので、物事がスムーズに動く。ところが、長い歴史のある病院には厳格なルールが出来上がっていて、自分のやりたいことを勝手にやるのが難しい。

大きな病院組織で自分の好き勝手を通そうとするとき、役に立つのが「患者さんのため」という言葉だ。

「この状況ではこうしたほうが患者さんのため」。一見反論の余地のないありふれた言葉のようでいて、そこにはどんな意味を含ませることもできる。医者の意見に説得力があれば、「この病院ではこうすることになっている」という、現場の反対意見など簡単に覆すことができるだろう。

大きな組織といえば大学病院だが、大学で「患者のため」というフレーズが飛びかうことは少ない。これは別に、大学が患者さんのことをまったく考えていないというわけではなく、大学病院という組織が専門科ごとに全く独立した組織であることに起因する。大学病院というところは、大きな一つの組織というよりは、50床程度の小さな病院が集合している組織なので、医者個人個人は好き勝手に働ける。誰も手伝ってくれないけれど。

ルールは破るためにある。医者という仕事をやっていると、ルールどおりに動いたのでは上手くいかない状況などいくらでもある。結果として、市中病院で長く働いていると、「こうしたほうが患者さんのため」というフレーズは何度も引っ張り出される。何が患者さんのためなのか。この定義は、そのときの医者のアイデアに合わせて歪められる。

「患者さんのため」という言葉は、医療者として働いていくうえでの世界暗示(オリジナル・ランゲージと読んでください…)だ。医者として働いていく上でこれほど大事な言葉は無く、一方でこれほど価値のあいまいな言葉もまた無い。

何が患者のためなのか。頑張ることか、看取ることか。ステロイドを使うことなのか、あえて使わないことなのか。研修医が様々な状況を体験していく中で、「患者のため」の意味はどんどん変化する。

研修医を教える際、「こうするのが患者さんのため」というフレーズは禁忌である。

本来は「この状況では僕はこう考える」、せめて「俺がエビデンス、やりかたはこうだ」と教えなくてはいけないのだが、ベテラン同士、あるいは他の職種の人との折衝の中で「患者のため」を多用していると、ついつい研修医にも同じ言葉を使ってしまう。この言葉は研修医の判断の基準を書き換え、そこにロジックボムを仕込んでしまう。

ロジックボム とは...
一定の条件が満たされると動作を開始して破壊活動を行なうウイルス。実行条件には日時や起動回数、インストールされているソフトの種類といったものが設定される。また一定の期間中、特定のホストにDoS攻撃を行なうものもある。「論理爆弾」とも呼ぶ。
これはいわば教育のバグなのだが、仕込まれたロジックボムは、ちょうど研修病院を卒業した後、他の病院に移ったときなどに発現する。

自分に仕込まれたロジックボムの例としては、たとえば喘息急性期の気管支拡張薬の投与がそうだ。

自分が研修した頃、救急外来の当直は上級生とペアを組んで行っていた。上級生とはいってもジュニアレジデント、今から10年も前なので「エビデンス」なんていう言葉も流行っておらず、教育といったら自分の経験の伝達がほとんど。

当時の救急外来には、「喘息重積発作の患者に気管支拡張剤の投与は禁忌」という話がまことしやかに伝わっており、夜間の重症発作の患者さんの治療手段は酸素投与とステロイドの静注のみ(ステロイドを積極的に使うこと自体、まだまだ珍しかった時代だ)。1年生が吸入の準備を使用ものなら「患者さんを殺す気?」などと怒られた。

今から思うと、挿管の必要なぐらいの重積発作の人にのんびりと吸入をやっていたレジデントがいて、その人がスタッフから怒られ、その言い伝えが変化して「重積発作に吸入すると患者が死ぬ」に行き着いたのだと思う。その上級生が、研修医に喘息のイロハを教える頃には「患者のためを思うなら、吸入はダメ」になる。

「患者のため」という言葉と抱き合わせになった知識は、半端でなく頭に刷り込まれる。こうしたゆがんだ知識は絶対的なものとして刷り込まれ、急変などで治療者の頭が熱くなっているときに爆発する。

論理爆弾が発現した医者は融通が利かなくなる。患者に吸入するのかしないのか。ここで看取るのか頑張るのか。すぐ手術室に行くのか救急外来で処置をするのか。消毒にはイソジンを使うのか、あるいはヒビテンか。医者同士の価値観の些細な違い、場合によっては治療の本質と全然関係ないところでお互いに譲れず、喧嘩になる。患者さん大迷惑。

「患者のため」という言葉とともに、若い頃に頭の深いところに突っ込まれたいろいろな価値観は、その間違いや歪みを自分で訂正することができない。

小児期に暴行された記憶はしばしば忘れられ、成長してから全く別の症状として出現する。トラウマは、その重要な性質として、「自分自身の存在を隠す」ということがよく言われる。そのため、自分の意志の力だけで直すことはなかなか難しい。
「患者のため」という言葉とともに仕込まれた爆弾もまた、頭の深いところに隠れる。まわりから「君の考えかた、変わってるね」と穏やかに指摘されても、変わっているのは指摘した相手のほうにしか見えない。爆弾を爆弾と認識するには、とにかくいろいろな価値観の医者と出会い、一緒に仕事をするしかない。明らかに自分とは違ったロジックで行動する医師の下で、「自分なら看取るな…」と思うような患者が元気になったのを見ると、初めて自分の中に爆弾の存在を疑えるようになる。

あとは自分の知識のどこが爆弾なのか。とにかく全ての知識を一度教科書や文献で確認して、さらに患者さんで新しい考えを実体験して訂正する。

自分の場合、爆弾撤去に5年ぐらいかかった。結果として出来上がったのが、2004病棟ガイドとして表ページに公開している文章。あれは、昔自分が学んだ判断の基準とはかけ離れている部分がいくつもある。まだ全てを検証し終えているわけではないけれど、複数の教科書に記載があったものは、自分の知識を爆弾認定して、文献どおりの記載を優先している。まだ爆弾を掘り起こしただけ。解体はこれから。

「ここのところ、変ですよ」という指摘、いただけるとありがたいです。