リスクを求める人々

誰だって死にたくない。いい目を見たい。

どうやったら生き残れる可能性が高まるのか?どういう生存戦略がもっとも効果的なのか?
取りうる戦略は、問題となっている状況のリスクにより異なってくる。

生き残るための戦略は、リスク最小戦略と利益最大戦略との2つに分類される。

リスク最小戦略とは、リスクが最小になるものを選ぶ戦略。これは保守的な戦略で、状況が安定しているときには、こちらの戦略がとられる。代表的な考え方は、「みんなでやれば怖くない」、 「良い解に近いところには、良い解が存在する」という方法論。常にみんなと同じ行動をとってみたり、なにか良い解答が見つかったら、その周りを集中的に探索したりする。

安定した状況の代表は、医師国家試験だ。国試の対策には、リスクを最小化するための戦略がとられる。問題は公開されないとはいえ、基本的にはどういった内容が問われるのかは事前に公開される。問題の攻略手段とは、すなわち国試対策の勉強であるが、これは他人と同じ教科書、同じ学習方法をとったほうがリスクが少ない。国家試験は資格試験であって、競争試験ではない。あえてリスクを犯して高得点を狙い、他人を出し抜く必要性は薄い。

問題となっている状況が、文字通り生存競争であった場合、他人と同じことをやっていたのでは全滅の可能性がある。営業職で、受注額下位3人が脱落するといった状況、あるいは今までの環境を規定していたルールが変わり、何が最適解なのか誰も知らない状況など。後者の状況で迷走しているのは、ローテーション制度で揺らいでいる大学病院だ。

状況が安定せず、生存の危機が目の前にリアルに実感できる場合、リスク最小化戦略をとっても生き延びることは難しい。状況が競争になっているとき、とくに、生き残るのが上位何パーセントなのかすら分からないときは、とにかく上位に入れる戦略を取るしかない。このとき取られるのが利益最大戦略で、これは少々のリスクを犯しても、利益が最大になるような戦略をさす。

安定した状況というのは、すなわちリスクを犯さなければ生き残れる環境である。その状況では、人はなるべくリスクを犯さず、その中で少しでも利益の多い方法を探る。方法論は集中化し、皆が同じようなことを考え、同じように振舞おうとする。

一方で、状況が不安定になると、生存の戦略は多様化する。他人と同じ事をしていては生き残れない。このままいくと絶滅することだけは見えてしまうので、人は今までと違う道を無理に探すことになる。環境の変化の結果、常に一定の数が絶滅するが、その前に多様化を志向しているため、生き残った人の方法論は、新しい環境に順応するために進化したものになっている。

問題が安定した、今までの方法論で解決可能なものであれば、人はリスクよりも安定を目指す。一方で問題がまだまだ安定していないものならば、人はリスクを取って進化の道を探る。

では、「病気」という問題はどうなのだろうか。何を持って「安定」といい、何を持って「不安定」というのか。

病気という問題に対峙しているのは医者ではなく患者。患者さんにとっての問題の安定/不安定は、結局のところ自分の主治医の意見を信じられるのかどうかにかかってくる。

今は情報が多い。疾患の進行が遅い病気、とくにまだ「治癒」が難しい病気は、患者さんがいろいろな情報を調べる。目の前の主治医がどんなに正しいことを言っていても、患者さんが手に入れる情報が増えれば増えるほど、主治医の意見は多数決の中に埋もれ、相対的に軽くなる。

患者さんにとっての病気の問題は不安定になり、その不安定さは患者さんに利益最大戦略を選ばせる。

何をやればいいのか分からないなら、一番効果の高そうなものを。
こうして患者はアガ○スクに走る。天下の大マスコミだって新聞の1面で絶賛。
目の前のしょぼくれた主治医の意見よりも、みのさんの話はよっぽど身にしみる。
以前思いっきりテレビでスイカが腎臓にいいと絶賛されたとき、日本中の透析患者のKが一瞬バカ上がりした。

疾患の進行が急激な病気、治療法がそれなりに確立している病気なら、患者さんは主治医の言葉を信じるしかない。

何だかんだと批判されても、西洋医学はリスクが少なくなる方向に進化してきた。とりあえず、主治医に任せるしかないか。
実際問題、心筋梗塞の患者さんから「私のガイディングは、DCカーブを使ってください」とか、まだ言われたことはない。

リスク最小戦略と利益最大戦略。「状況」の捉え方はともかく、生き物としては正しい戦略だ。

実際のところ、ア○リスクが「絶対に」ガンに効かないなんて誰も証明できないし、西洋医者のマスコミ批判と朝日新聞の医者たたき、10年ぐらい経ったら、「やはり、新聞社は正しかった」という結論に落ち着くかもしれない。

では、「個性的なお産」を求める人々というのは、一体なんなのだろう。

お産は、西洋医学の誕生よりも前からずっと行われてきた行為だ。時代の進歩とともにお産の成功率は上がり、かつては母子共々「生きるか、死ぬか」だったお産は、試行錯誤の結果安定期に入っている。

鉗子分娩や吸引分娩、帝王切開から消毒にいたるまで、全ての手技はつまるところ進化の賜物だ。こうした手技が完成するまでの間に犠牲になった人は数え切れないぐらいだろうし、同時に闇に葬られた手技や試行錯誤の数も、また同様だろう。

現在のお産という状況は、完全に安定化している。もちろん避けようの無いリスクはまだまだ多いが、とりあえず医者の言うことさえ聞いていれば、かなり安全にはなっている。皆と同じ方法論をとっていれば、生き残る確率は非常に高い。あえてリスクを取る意味合いはないように見える。

某病院の産科が、「当院では水中出産は行いません」という告知を行った。

現在のところ当院としては水中出産には否定的です。
自然分娩のひとつの方法として広まっているような面もありますが、
人間は陸生動物であり水中で出産することは「自然」ではありません。
水中出産は自然分娩ではありません。

自然に行えば問題なく分娩されるのに、
わざわざ危険な状態に身をおくようなことをする必要はないと考えるからです。

わざわざ言わなくてはいけないぐらいに問い合わせが多いのだろうが、個性的な分娩というやつを求める人たちは、自分が死ぬかもしれないなんて、全く考えていないのだろう。

リスクを取る必要が無い状況で敢えてリスクを取り、何かあったら医者のせい。こういう戦略、人である以前に、生き物としてどうなのだろう。