夢を見せる機械としての大学

自分という人間は、世の中でどれほどのものなのか。今までの生き方は正しいのか。これから進もうとする道というのは「いい」道なのか。

たいていの人にとって、人間の価値というものは相対的なものだ。

自分の価値というものは、他人と自分との距離感からしか把握することができない。他者の存在、それも「自分よりも負けている」それを見ることなくしては、人は精神を健全に保つことすら満足にできない。

人の価値観を決定する軸が1本しか無かったならば、人間の価値の優劣を決めるのは簡単だ。

例えば価値観の軸が「収入」しかない世界なら、お金を持っている奴が「勝ち組み」で、そうでない奴らは全て負け。人々は収入順に1列に並んでおり、自分がどのあたりのポジションなのかがとても分かりやすい。

努力に対する対価は全てお金の形で与えられる。収入に反映されない努力は全て無意味。平凡な人間は、すなわち人生の敗者。価値の軸が1つしかない社会では、「普通」であり続けることは、常に敗者でありつづけることを意味する。

実際の世の中は、ここまでギスギスしてはいない。人の価値の軸が1本しかないなどということは無く、人々は、複数の価値観の軸から作られる座標上に、ばらばらに散らばっている。

もちろん、「収入」という価値の軸は厳として存在する。それでも、それ以外の価値観、名誉とか、あるいは夢とか、自由とかいった価値観の軸もまた存在する。こうした複数軸から構成されたマトリックスは、全ての人間に勝者の夢を与え、明らかな「敗者」というものを世界から隠す。

価値の優劣というものはあるのだろうか?
夢は名誉よりも優れているのだろうか?
お金で買えない夢などあるのだろうか?

価値には優劣はある。

もちろんお金で買えない夢とか、名誉とか、地位といったものもたくさんある。一方で、世の中のそうしたものの多くが、お金を通じて実現できるのもまた確かだ。古来、物の価値のあいまいさを、何とかして共通のルールで評価しようと人々が工夫してできたのが貨幣だ。インターネットのランキングなんかより、その歴史はよっぽど古い。

何かのきっかけで、社会の価値観の軸が消滅すると、その価値は収入に投影される。

アメリカのような国がそうだ。アメリカンドリームとは、要は高収入の暮らし。地位の高い人は、それに見合った高い収入。人々の賞賛の声は、ダイレクトにその人の収入に反映される。地位や名誉、夢の実現。それらの価値というものは、全て「ドル」で査定される。

日本はまだそこまでいっていないと思う。まだまだ社会にはいろいろな価値観の軸が存在する。地位の高い人は必ずしも高収入というわけではなく、また収入に反映されない夢の実現であっても、「プロジェクトX」はすばらしいことと誉めたたえる。多くの人はそれに納得しているようにも見える。

多様な価値観は、お互いの位置関係を分かりにくくする。座標平面の中では、誰が本当の「勝ち組み」なのか、誰にも分からない。相対主義的な価値観は、社会から無用の軋轢を取り除く。負けていると実感している人がまだまだ少ないから、日本の社会は安定している。

医療という業界の経済的な大きさは、意外に小さい。

市中病院で働く医者一人一人は結構高収入。テレビに出るような一部の人は、年収数千万円なんてザラ。一方で、医者の世界には無給同然の大学病院医師、1ヶ月フルに働いて、月収13万円程度なんていう医師も、また数多くいる。

計算のしようも無いけれど、日本国内の医師の収入全部を合計して、全ての医師数で割ってみれば、多分医師の平均収入はそんなに高くはならないと思う。

医師の価値というものが、全て貨幣で査定されるようになったら何が起こるか?

世の中の医師のほとんどは負け組みになる。地域医療なんてバカのやること。収入に反映されない研究など、やるだけ無駄。過酷な競争が生まれ、1円ごとの年収の差に「勝ち負け」がつく世界。

こういうギスギスした社会が好きな人がいるのは否定しないけれど、自分は嫌だ。もう少し、好きなことを自分のペースでやりたい。そんな医者でも、他の人からは負け犬扱いされる。これは相当嫌だ。1次元的な価値観の社会では、誰もが容赦なく競争に引きずり込まれる。

医師の価値世界は2軸から構成される。

収入による価値の軸とは別に、医師の世界には「勤務する病院の序列」という価値の軸が、昔から存在している。低い収入でも我慢できる医師を増やす手段としては、「大学病院を頂点とする病院ごとの序列」という装置は、十分に効果的に機能してきた。

大学病院とか、高機能な市中病院は勉強になる代わり、収入は低い。そこで常勤で働けるのは大変な名誉。でもそこにたどり着くまでの間は小遣い程度の収入に甘んじ、よしんば成功者になれたとしても、そんなにすごい収入があるわけではない。

一方で、民間の小規模な病院は医者が来ないので高収入。余暇も結構ある。本来は皆がうらやむ立場のはずが、大きな病院から「見下ろす」立場の医師たちは、収入も余暇も無い自分達のほうがよほど幸せだという。

どういう医師が本当の成功者なのか?価値の軸が複数あると、お互いの立ち位置がわからない。分からないから軋轢は生じない。医師の世界にはいろいろな「成功者」が平和に共存することができた。
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いま、大学病院で働くことに対する価値が急速に低下している。大学を頂点とする病院の序列が瓦解すると、「大きい病院で働くことは名誉」という価値観が崩壊する。

「そんなことは無い。虎ノ門はどうだ?聖路加は?沖中は?国循は?」という反論はあるかもしれない。でもそうした病院もまた、大学病院が最高という価値観に対する反動が生み出したものだ。

目指しているのは大学というポジションを自分達のやり方で置換すること。目標になる大学病院の価値が瓦解した時点で、どの組織も「低い収入でこき使われる病院」の仲間入りだ。

大学という価値の軸がなくなると、全ての医師は「年収」という共通の尺度でしか自分の立場をはかることができなくなる。
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今まで「成功していた」はずの多くのベテラン医師は、その経験や「腕」の割には低い収入という現実を否応無しに突きつけられる。大きな病院で部長として働いていた多くの医師が、いま民間の「地位の低い」病院に、どんどん移動している。病院ごとの序列という価値観の崩壊、それに伴う全ての医師に対する「収入」による価値の査定というものは、すでに始まっている。

「医師の社会」という小さな世界を操作できるのは、その世界を外から見ている他の人々の力だ。患者さんがいなくては、医師はそもそも世界に存在することすらできない。他の人々からの賞賛の声が無ければ、誰が好んで大病院の安月給に甘んじるだろう。

多くの人々の声、あるいはそれを「力」に代えるマスコミの人々の意思により、「大学を頂点とした病院ごとの序列」という装置は瓦解した。「名誉」と「カネ」の座標系という2次元的な世界観で動いてきた医師の世界は、いまカネという1つの価値観のもと、全ての医師が1列に整列しようとしている。

こうなることはなんとなくヤバいと、誰もが本能的に分かっている。

大学の力を潰そうと、いろいろな力が渦巻いている。一方で、収入の低い医師、きつい仕事に耐えている医師に「夢」を与えていた「大学病院」という装置を何とか再起動しようと、地方自治体をはじめとする多くの人々が、あれこれ頑張っている。一度壊れたものが本当に復活するのか、復活したところで、中の人たる医師がそれに乗っかるのか、まだ誰も分からない。

夢から覚めて荒涼とした現実に絶望するのか
このまま「大学」といういい夢を見つづけるのか
勝ち組はどっちだ?