奇跡のおきる場所

肥料をやりすぎた植物は大きく育たない。

知識も同様。現場に何かのニーズが生じたとき、それを達成するのに必要な条件に制限が加わって、はじめて新しい知恵やノウハウといったものが生み出され、その現場での知識というものに新たな蓄積が加わる。

時間的な制限や人的制限、資金の問題などが全く無い病院などが世の中に存在したならば、おそらくは教科書どおりの治療以上のものがそこから生まれる可能性は低い。発展の無い現場のモチベーションは、労働時間を削る方向にしか働かない。最低限度の仕事、マニュアルどおりにこなすだけの仕事。目的は、定時に帰ること。

「足りている」職場からは、新しい考えかたは生まれてこない。一方で制限は思考を加速させる。

有名どころの市中病院では、とにかくマンパワーと時間とが不足している。

患者さんは押し寄せてくる。期待に応えるだけの治療をしたい。でも、マニュアルどおりにやっていたのでは時間がいくらあっても足りない。

限られた時間、少ないスタッフの中で患者を治療していくには、マニュアルどおりの方法ではマンパワーが不足であったり、もしくは得られる結果が現場の感覚として不足であったりといったことが生じてくる。

与えられたマニュアルに不満を感じるようになると、そこから状況改善のモチベーションというものが生じる。少ないスタッフで、どこまで経過観察を間引けるのか。患者さんの診察から、その治療の結果や合併症が、どこまで読めるのか。プロトコールをどういじれば、症状改善までの期間を短縮できるのか。

マニュアルどおりの手順から手を抜く方法。逆に、マニュアルに手を入れて、経過を最適化する方法。実際に何人も患者さんを治さなくてはならない市中病院は、こうしたマニュアルを改善するためのノウハウを大量に蓄積している。

時間の無い市中病院で生まれた治療のコツを身につけると、患者さんの治療はよりシンプルで洗練されたものになる。必要最小限の検査、より少ない侵襲、そしてエビデンスに裏打ちされたソツの無い治療。

同じ治療を学ぶにしても、教科書に書いてあること以外に学ばなくてはならないことはたくさんある。知識というのは、それ自体を学ぶことだけでなく、自分のいる現場のニーズにあわせてその知識をどうアレンジしていくのかを学ぶ必要がある。こうしたノウハウはなかなか表に出てこないのだが、研修中に身につけると後々非常に役に立つ。

では、大学病院における「足りないもの」とはなんなのだろうか。

大学にはほとんど無尽蔵といってもいいほどのマンパワー(効率がいいかどうかは別)、莫大な予算、受け持ち患者が2桁に達することはほとんど無いぐらいの時間、全てそろっている。ならばヌルい治療しか生まれないのか?そんなことは無い。

大学病院で足りていないものとは、「撤退の選択肢」だ。

大学病院に入院した患者さんは、その病名如何にかかわらず、その病気で亡くなることは許されない。

市中病院なら、教科書的に助からない病気の人、あまりにも状態が悪かったり、高齢で治療に耐えられないと判断される患者さんについては、侵襲的な治療行為を行わずに「保存的に」経過をみるという選択肢が考えられる。

そこそこで止めておくのは、たいていの場合は賢明な判断だ。敢えて侵襲的な治療に踏み切っても、たいていの場合、待っているのは泥沼化した経過、苦しみもだえる患者、睡眠不足の主治医、そんなもの。ろくな結果になりはしない。

大学は違う。大学病院に撤退は無い。どんな状態の患者さんであっても、状態が悪すぎるなら状態を改善して治療、高齢で治療に耐えられないなら、主治医泊り込み上等で治療。

大学の医者は基地外集団か?そんなことは無い。みんな市中病院での臨床経験者。ソツの無い治療の「常識」ぐらいは知っている。それでも、大学での合議制の治療計画のもとでは、過激な方針を口にした奴の意見が通る。

難しい治療プラン、ハイリスク/ハイリターンの治療プランを提示されて、受けなければ男じゃない。かといってリスクをお客に押し付けるわけにはいかないので、そこは泊り込んででも、気合で安全度を上げる。幸い、交代要員はいっぱいいる。大学は土日が休み(その代わり無給で働く)なので、時間も十分にある。


患者が亡くなるのを正当化する奴っているよナ
たとえば…どうしようもないアシドーシスのショックだったから
挿管しないで看取ったとか……

オレは嫌いなんだヨ そうゆーの

超高齢者、治癒の見込みのない病態
そんな患者をみたとき、主治医の心はすでに患者から離れている
そんな人に奇跡的な回復など望むべくも無い
当然そのまま看取られてしまう可能性は高い

主治医の心が引いた患者は必ず悪化する、ただそれだけだ

……ただ、本当に時として……奇跡としか思えないコトがある

絶対に治癒が望めないような状態なのに
なぜか予想以上に回復してしまう時がある
奇跡はあった 本当に幾度も
睡眠時間を削って無茶な治療を仕掛けた医者なら
誰もがそれを知っている

エビデンスの欠如?医療経済無視?なんとでも言ってくれ。ここは大学だ。もちろん普通の病院でも患者は治せる。「普通の」病気なら、よっぽどスマートに早く治せる。そこそこで止めておく。クレバーな判断だ。でもそれでは奇跡はおこせない。

患者に奇跡がおきるのは、いつだって大学病院だ。

きれいな治療、最小限の侵襲、エビデンスに基づいた最適な治療経過を追求する姿勢。こうした努力は、もしかしたら助かるかもしれない一部の患者を見殺しにしているかもしれない。

大学病院の治療というのは非効率。本気を出すと、医療費は簡単に数千万円の大台に乗る。そんなことを何人もの患者さんにやって、実際のところ「奇跡」を見れたのはこの3年でまあ数回か。

壮絶な無駄。でも、それを自分の目でみると、市中病院で「スマート」だと思っていた治療というものには、まだまだ何か足りないものがあるのに気がつく。

大学病院と市中病院、どちらが正しい治療をしているのか。いろいろなところで議論になっているけれど、やはり一度は大学という組織を見に来ることを勧めたい。無駄に多い人材、信じられないぐらい頻回の検査、「本当に、この人にこんなことやるんですか…?」と思わず聞きかえしたくなるような、治療ストラテジー

どうせ、日本でこんなことが許されるのも、あと数年。でも、お一人様家一軒ぶんぐらいかけると、まれに本当に奇跡的な回復をする人がいるのもまた事実。西洋医学は、本気を出せば結構すごい。

見られるうちに、ぜひ大学へ。