出来ることと見えること

以前研修を受けた病院では、まず見て、学んで、その後で実際にやってみて、さらに他人に教えられるようになって一人前と習った。

「それが出来る」ということと、「それを知っている」ということとは全く違う。

知識の成長過程として、以前は何の疑問もなく「知る」->「出来る」だと考えていた。最近になって、この順番は逆のような気がしている。

手を動かすことと、見て学ぶこと。

実際に手技を受ける患者さんの立場からしてみると、ろくに学んでもいない医者から針を刺されたりするのは勘弁願いたいだろうし、知識のない奴が侵襲的な手技を行うことは、今日ではもはや犯罪だ。

一方、「見る」ことと「やる」こと、どちらがより高級な行動なのかを考えると、「見る」ことのほうがより難しい。

今よりももっと下手だった頃、自分としては「出来る」と思っていた手技の数は、今以上に多かった。

年次が進み、より上手な人の手技を見る機会があったり、自分流の方法ではうまくいかない部分が他人の方法論ではあっけなくうまくいくのを目の当たりにしたりして、当初の根拠のない自信は打ち砕かれ、自信のある手技の数は年を追うごとに減りつつある。

人の手技の上手下手、自分の手技の問題点を「見る」ことは難しい。うまい人の手技を見て、単にうまいと感嘆するのと、ベテランの主義のすごさが何処からきているのか、自分の問題として考えられるようにらるのとは、ずいぶん隔たりがある。

先に手を動かさないと、見て学ぶことは出来ない。

人の手技を見るときには、頭を働かせる余裕はない。どこが優れているのか、どういった部分が自分の手技と違うのか。こんなことを理性的な頭で考えているうちは、多分まだ「見て」いない。

ある手技をマスターして、少なくとも典型的な症例では何も考えなくとも動作が出来るようになって、初めて他人の手技から何かを学ぶことが出来る。そういう状態になったとき、目から入ってくる他の人の手技の情報と、自分の身体記憶のギャップが感じられるようになり、自分の手技を客観的に評価できるようになる。

10年カテやって、未だに発見がある。他の人の手技を見るのは面白い。

これが面白くなくなってきたとき。たぶんこの施設を去るべきときなのだろう。