魔法使いの弟子

##魔術は「場」の力を借りる技術
一人でできることというのは限られる。重症の患者さんの治療。何か特別な治療手技。医療に限らずどんな業界でも、大きなことをやろうと思ったら他の人の助けがいる。

人は集まって「場」を作る。数人の集団から、病院や会社などの組織、村や町といった、もっとつながりの薄い集団。こうした人が集まった「場」というものは、うまく働きかけると、まるで一つの人格を持ったかのように動く。

「場」というものには、単なる個人の集まり以上の力がある。いろいろな人が働く病院という組織。会社や、もっと大きな社会。「人の力を借りる」ということは、「**場**」の力を引き出すということだ。これは、自分の身の回り数人に声をかけるというスケールから、病棟を動かす、病院全体に働きかける、社会現象を引き起こすといった大きなスケールまで、とても守備範囲の広い言葉だ。

##場の持つ力を借りる方法
人の集団、あるいは場所の持つ力を引き出す方法は、古くから研究されてきた。

古いところでは、シャーマンの呪術。中世の黒魔術や白魔術。現代の政治家のプロパカンダや、広告代理店の打つあらゆる広告手段。最近のコマーシャルだって、もとをたどれば魔術の流れをくむものだ。

魔術や呪術はオカルトではなく、人の集まる場所の力を効率よく引き出すための洗練された技術だ。現在の広告手段は非常に巧妙になったけれど、その方法論は、魔術が現実に行われていた時代とそう変わりは無い。

##黒魔術と白魔術
魔術の方法論というのは、黒魔術と白魔術、大きく2種類に分類できる。
>黒魔術は悪、白魔術は善。黒魔術は悪魔と契約して、白魔術は聖なる者と約束する。黒魔術は油断すると魂を持っていかれるけれど、白魔術は安全。

ステレオタイプ的に語られる魔術の方法はこんなものだが、実際はそんなに単純なものじゃない。この2つの魔術は、単に約束を交わす相手が神様か、悪魔かの違いだけではなく、もっと多くの部分で異なっている。

##黒魔術の方法論

黒魔術は、術者が何かの代償を払い、その力を利用して場の力を借りる。

身近なところでは、失恋した女性が髪を切るという行為がある。髪を切って、外観を変えることで、その人の周囲に「何か」があったことを知らせている。髪の毛を代償に、「何かあったらしい」という噂は廻り、相手の男への非難という形を取って、「呪い」が成就する。

中世のサバトの儀式や、日本の丑の刻参りなどの呪いの儀式というものも、儀式自体に力があるのではなく、その儀式を他の誰かに見てもらうのが目的だ。

>あいつ、○○を呪ったらしい。

こうした噂は村を廻る。小さな集落なら、誰がその呪いの相手なのか、黙っていてもわかる。それからしばらく、呪いの対象となった人がちょっと転んだり、けがをしただけでも「呪いのせいだ」という噂は続く。呪われた本人も嫌な気分になることが続き、結果として呪いは成就する。

呪いをかけた本人の評判は落ちる。最悪、集団から村八分にされる。それでも、本人の評判を代償に、呪いは成就する。

何かを代償にして、集団の持つ「場の力」に訴えるという方法論は強力だ。代償さえ払えば、どんな目的であっても何らかの効果を期待できる。代償さえ払えば、悪魔というのは実に誠実で頼りになる。呪いをかける人の技量に関係なく、呪いというのは代償を払った分だけ成就する。

##白魔術の方法論
ある程度成熟した集団には、その力を引き出すためのシステムというものが存在する。白魔術の術者は、そのシステムに自分の目的を訴え、願いを成就させる。

宗教というのは、集団の力を引き出すためのシステムの代表的なものだ。「**神様がこうおっしゃった**」という言葉は、現在でもものすごい数の人を動かす。

自分のやりたいことが、その「システム」が志向する目的に近いときは、この方法はうまくいく。願望を訴えるシステムが、例えば「神様」だったりしたときは、その力は極めて強力で、願いが成就しても何の代償も求められない。術者の目的が世界平和とか、誰かの幸せといったものであれば、こうした願いは比較的容易に、誰でも成就させることができる。

一方で、集団が作る意識というのは頑固で、制御が難しい。

例えば「学校の先生」というのも、教室の生徒の力を引き出すための一種のシステムだが、「嫌な奴に罰を与えてほしい」と先生に願ったところで、やってくれるのはせいぜい説教ぐらい。自分の代わりにぶん殴ってくれるような親切な先生はまれで、先生の説教はかえって状況を悪化させる。

神様の力も、その力を借りてお金を集める、選挙に勝つといった話になると、「自分の目的」と「システムの目的」が乖離しはじめる。自分の願いをシステムの目的に合わせるには、それを作っている集団を説得しなくてはならない。

集団意識を説得するには、術者に相当な技量が要る。「あの人は教義をゆがめて、自分の目的に利用している」などと悪い噂が立ってしまうと、術者はその名声を失う。

そうなると、やっていることはもはや黒魔術と変わらなくなる。だから、白魔術の術者というのはしばしば「**ダークサイドに堕ちる**」。

##最適な方法は状況で変わる
黒魔術的な方法と、白魔術的なアプローチ、どちらがより効率的なのかは、自分が存在している場所の忙しさや、マンパワーによって変わってくる。

投入できる人的なパワーに限りのある、忙しい市中病院では、どういった症例に、どういう人材を使えるのかという規則がかなり厳密に組み立てられている。

市中病院でみんなの力を借りるには、その病院にある規則を速く理解するのが重要だ。自分が4人の人手がほしくても、そこでは伝統的に3人しか割けないなら、「4人」と声高に叫ぶ前に、3人で同じことをやる努力をする。どうしても4人ほしいなら、「患者さんのため」には4人という人数がいかに大切か、「患者さんのための努力」「病院として正しい行動」を、自分の思惑にかなうように歪めることを考えなくてはならない。

大学病院でのアプローチは逆だ。大学の人的なリソースの量は、市中病院のそれに比べれば無限といっていいほどに豊富であり、その気になればどんな治療手段をも可能にする。

一方で、大学病院の職場というのは小さな組織の巨大な集まりなので、何かの目的のために一体となって動くということがありえない。

この巨大な組織の力を引き出すためには、とにかく声を大にして「自分に協力してくれ」と叫ぶしかない。大声を出すだけ、あるいは怒り狂うだけで人はついてくる。混沌とした巨大組織から自分の思惑通りの力を引き出すのは、容易である一方、力を行使する術者に何らかの犠牲を要求する。叫んだり、怒ったりするのは疲れる。「変な奴」認定された医者は、そのうち誰からも相手にされず、放り出される運命にある。

##第3の方法
技術は進歩する。儀式の方法、説得の技術。派手なプレゼンテーション手法。広告代理店というのは、現在の魔術師だ。

魔術師は、新しいやりかたを模索する。

黒魔術的な自由度の高さを持ちながら、その成就にごくわずかな代償で済み、その効果は神様が本気を出したときの白魔術のそれに匹敵する方法。そんなものが編み出されつつある。

そうした新しい方法で、最近行われた代表的なものは、湾岸戦争の時に報道された「原油まみれの黒い水鳥」の写真なのではないかと思う。

oiledbird.jpg

この写真は、アメリカの「やらせ」であったことがほぼ定説になっているが、今までの戦争プロパカンダとは少々趣が違う。

従来の戦争広告は、もっと具体的なメッセージを流した。

>「イラクはこんなに悪い連中だ」「米軍には正義がある」

力強いメッセージを声高に叫んだり、そうした叫びを裏打ちするようなデマを流したりというのが、戦争広告の常套手段だった。

ウソはいずれはばれる。戦争がはじまったとき、真っ先に失われるのは真実だ。現代では、そんなことは誰だって知っている。知っているから、少々の宣伝を流したぐらいでは、「世論」というもの、集団の意識というものは動かない。

今回の戦争宣伝で使われたのは、人間ではなく油まみれのトリ一匹だ。

トリが「**イラク侵攻は正しい**」などと叫ぶはずも無いのに、世間はそう叫んでいると信じ、戦争の正義を支持した。これもやらせだとすぐに批判の声はあがったが、実用的には十分な期間、この鳥は世論を引っ張ることが出来た。

>何か願い事をするとき、悪魔に願うならば代償が必要で、神様に願うならば、その「意志」に従う願いしか聞いてもらえない。

第3の方法は、「聖なる者をかん違いさせればなんだって出来る」ということだ。騙すなんてとんでもない、みんなそう信じていた。でも、やってみたら結構簡単で、その方法論も確立しつつある。今はきっとそんな状況だ。

##神様の行動を制御する
神様の判断というものは、その存在を信じる人たちの判断の平均値、集団知による判断だ。

集団知というものは、判断しなくてはならないものが理解しやすいものであった場合、極めて正確にその是非を判断する。集団の中の誰かが、ある願いに激しく心を動かされても、人数が多くなると、その熱狂が他の人に波及する可能性は低い。集団知の下す判断、神様の思考というのは常に**無難**なところに落ち着き、一方向に引っ張られるということはない。

ところが、集団知による判断には盲点がある。誰にも善悪の判断がつかないものが提出されると、その判断力を容易に失ってしまうのだ。

>ある集団の成員ひとりひとりの正答率が平均して50%以上であるとき、答えの平均が正解である確率は、集団の規模が大きくなるほど100%に近づいてゆく。
>一方で、成員それぞれの正答率が(平均して)50%を下回る場合、答えの平均が正解である確率は、集団が大きくなればなるほどゼロに近づいてしまうのだ。

>[集団に知はあるのか?](http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002223.html)より引用

原油まみれの水鳥を見せられた世間は、一種の思考停止に陥った。

それをはじめて見せられたとき、誰もがそれをどう判断していいのか分からなかった。そこには具体的な願望というものが何もなく、あったのは強い印象と、漠然としたイメージだけ。世論は、ここから2つのメッセージを読み取った。