文章メディアの限界と可能性(前半)

小説や漫画。映画やゲーム。

作家や監督の「思い」や体験、意図といったものを伝える様々なメディアは、技術の進歩とともにどんどん増えている。

メディアには、それぞれの特徴がある。長所や短所。得意分野や欠点。果ては製作にかかるコストや流通経路。考え出したらきりが無い。

様々な表現メディアを比較する上で鍵になるのが、時間軸の主導権という問題だと思う。

##「一手間かける」重要さ
作家は何かを意図する。それは自分の想像したことであったり、自分が過去に体験した物語であったり。あるいは、単に観客の「度肝を抜く」ことであったり様々だが、その意図の伝わり方というのは、メディアにより大いに異なる。

作家の意図を、受け手の頭に「**刻みつけたい**」とき、その意図の理解にはある程度の手間がかからないと、読者の頭の中までは情報が入っていかない。

>某社がかつて、水を加えるだけでケーキの焼けるケーキミックスを発売したが、市場からは全く相手にされなかった。
>売れなかった理由はこうだった。
>>消費者は、水を加えるだけでは**料理**をした気にならない。ケーキミックスの存在意義というのは、ケーキを簡単に焼くことではなく、主婦が「料理」を簡単に行えることにあった。

>作るのが簡単すぎると、ケーキは焼けても料理をしたことにならない。料理と呼べる最低限度の手間とは何か。この会社では、ケーキミックスに卵を加えないとケーキが焼けないように「改良」を加えた。この商品はおおいにヒットしたという。

「すばらしい体験をした」という感動は、その物語に作者がこめた意図を、読者が「自分で発見した」から生じる。そこにはある程度の手間がないと、「自分の発見」という形で消費者の頭に入っていかない。

発見に必要なのは、作家の意図の言語化という行為だ。言語化の必要のないメディア、アクション映画や遊園地の絶叫マシンを体験するのはラクだけれど、そこから何か重大な意図を発見するのは、逆に難しい。

##体験の重要さは理解の手間に比例する
今までに覚えている感動した話、重要な知識や体験といったものの「重要さ」は、その物語や体験自体のすごさではなく、「作者の意図した物語を、作者と共有するために要した手間」に比例する。

どんなにそれがすばらしいものであったとしても、それが簡単に理解可能な体験ならば、人間はそれを「重大なもの」としては記憶しない。

たとえば「かもめのジョナサン」という本はベストセラーになり、そこからいろいろな「重要な体験」を汲み取る人がいる。あの本を体験するのは簡単だが、一方であの本を解釈、あるいは理解するのには手間がかかる。

本を読んで、「本を読んだ」という体験をするところまでは万人共通のプロセスだ。そこから先、作者が物語りに込めようとした意図を「発見」するという行為は、読者一人一人の個人的なものだ。

読者が発見した「物語の本当の意味」が、はたして作者が意図したものと一致するのかどうか、そんなことはどうでもいい。その発見が重要なのかどうかは、その人がメッセージを発見するまでに、どれだけの苦労を要したかだ。

あの本から、「人生努力が大事」なんていうメッセージを受け取った人がいるとしても、ならばその人が「人生努力」と書いた文章を読んで感動するか?たぶん「ああそう」と受け流してしまうだろう。おなじ文章でも、例えば相田みつをの書道のように歪んだ毛筆で書かれていれば、そこにまた「解釈の手間」が生じる。ただのありきたりな人生訓でも、そこから何らかの「体験」を読み取る人も出てくるだろう。

##楽なメディアと大変なメディア
大部の小説を読むのは大変な作業だ。目次や挿絵といったものが全く無かったり、ましてやそれが母国語で書かれていなかったりすれば、なおさらだ。

簡単なメディアの代表は、遊園地のアトラクションだ。良く出来た絶叫マシンなど、もはや乗っているだけで何も考えなくても「体験」ができる。吐くけど。

作者の意図したものを「体験」するための難易度というのはメディアごとに違う。

こうした難易度を決定しているものは、人間の様々な感覚だ。

視覚。聴覚。時間の感覚。そして体感。こうした感覚のうち、いくつを作者にゆだねるのか、その割合で、そのメディアの難易度というものが決定される。

>本->挿し絵->マンガ->映画->遊園地の絶叫マシン

物語を伝えるためのいろいろなメディアは、「難しい」ほうから大体この順序で並ぶ(演劇とか舞台は、語れるほど多く見ていないので除外)。この順序は、そのまま人間の感覚をロックする割合に一致している。

乗っかっていればいいメディアは、誰が見ても面白いが、後に残りにくい。一方、つまらない小説は投げ出されるが、それが読者にとって非常に面白いものであれば、何年経ってもその思い出は残る可能性が高い。

##漫画喫茶と映画館の越えがたい壁
メディアの難易度の序列の中で、特に**マンガ->映画**の差というものは、非常に大きい。この段階で、時間軸の決定権は読者から映画監督へと奪われる。

静的なメディアと動的なメディア。読者に考える時間が自由に与えられている小説や漫画。上映時間やアトラクションの動作中は立つことも許されない、映画やアトラクション。

この両者の間というのは、越えがたい溝がある。映画やゲームの小説化、あるいはその逆が必ずしも上手くいかないのは、たぶんこのあたりが原因なのだろう。

時間軸の決定権が作者にあるのか、あるいは読者にあるのか。
このことは、メディアの性格を大きく決定付ける要因になる。

##技術の進歩は過去のメディアを上書きする
物語の作者にとっては、表現の自由度は多ければ多いほどありがたい。

例えば白黒映画時代。初めてカラーの映像が出た当時は、「カラーなど品が無い」「白黒映画のほうが深みがあって面白い」といった批判がたくさん出たそうだ。

ところが時代はカラー一辺倒になる。カラー映画の白黒版を作ることは、簡単にできる。一方、その逆は不可能だ。一度カラーの映像を知った製作者は、カラーの良さを知るとともに、今まで知らなかった「白黒のよさ」も発見する。同じメディアを使った勝負なら、その長所をより多く知った者のほうが有利だ。カラー映画を体験した監督と、白黒に固執した監督。最後はカラーを体験した人のほうが勝つ。

白黒とカラー、モノラルとステレオ、メディアの表現方法には様々なイノベーションがあり、そのイノベーションがもたらした「体験」というものは、過去の人との間に[決定的な断絶](http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050829#p04)を作ってしまう。

次世代のメディアというものは、過去のメディアの上位互換として機能する。ならば、「時間軸を制御する」機能を手に入れた映画という技術は、文章メディアの機能を完全に上書きしてしまうのだろうか?

##映画は小説を殺したか?
映画ができる前、動画というものは再現不可能だった。一方で、スクリーンに文字を投影すれば、たしかに映画館で小説を「上映」することも可能だ。

それでも小説は売れている。カラー映画の登場とともに、白黒映画は主役の座を降りたが、動画メディアがこれだけ普及しても、やはり小説は重要なメディアの一角を占めている。

映画をはじめとする動画メディアは、もともと舞台演劇を再現するために発展してきた。このため、映画の文法の中には、もともと「文字情報」という概念が含まれていない。

たとえば漱石の「こころ」。うだうだ悩んでいるだけ。太宰の「走れメロス」。素っ裸の男がゼーゼー言いながら走っているだけ。文章のまんま映像化したら、たぶん犯罪的につまらないものになる。映画とは、小説の上位互換のメディアではなく、全く別の作品として作り直さないと成立しない。

実時間で演じられていた舞台演劇をベースに発展してきた映画と、人間の思索を可視化するところから始まった小説は、まったく別のメディアだ。映像メディアがどんなに発達しても、それが「表現に文字を取り込めない」という制約がある限り、文章メディアが映画に飲み込まれることは無いだろう。

##文字の使えない映像メディアの制約
時間軸というのは、非常に大事な感覚だ。「映画を見る」というルールでは、観客は時間軸のイニシアチブを映画監督に渡す。

このことは、作家の表現の自由度を飛躍的に増やす反面、「観客の感覚を裏切れない」という制約をもたらしてしまう。

映画は、その表現がリアルになるほど実世界のルールに縛られる。

「ルール違反」は観客を不快感を与える。映画の中のヒーロー、スーパーマンバットマンが、あそこまで明らさまに怪しい格好をしているのにはわけがある。「わたしはこれから実世界のルールを破ります」と観客に宣言するためだ。

映画の中で人が空を飛ぶ、ビルから飛び降りるといった行為は、「ここからがフィクションです」という宣言をしないと、観客を不安に陥れる。

映画の文法の中では、実世界の常識を覆す動作は全て観客に不快感を与え、ファンタジーを意図した動作をもホラーにしてしまう。

アニメの「巨人の星」などは、そのあたりをうまく処理している。星飛雄馬がボールを投げて、バッターボックスに届くまでに3週間かかるなんてザラだったけれど、あれは紙芝居に近いアニメだから安心して見ていられた。アニメーションがよりリアルになったり、あるいは実写映像になれば、もはや「お約束」は通用しなくなる。

実写メディアで、普通の人が常識外れの行動を起こすと、観客は非常に不安になる。映画「エクソシスト」がいまだにホラーの金字塔なのは、あの映画の中には普通の人しかおらず、「モンスター」の映像が一切出てこないからだ。

##文字というメディアの「速さ」
映像がリアルになるほど、動画メディアの作家は、観客の時間軸を裏切れなくなる。

小説世界では、数十ページにもおよぶ心理描写などはザラだが、こうしたことは映像メディアでは非常にやりにくい。

動画というのは本来、情報の受け手が体験できる情報量が非常に多い。ところが、処理しなくてはならない情報量が多すぎて、頭が映像を「理解する」スピードというのは遅い。頭が状況を理解できるスピードは、小説のほうがよほど速い。

「速い」物語、たとえは悪いが「北斗の拳」の**ケンシロウ**や**ラオウ**といった「漢」達たちが、延々と語り合いながら殴りあう場面などは、拳が一発入る間に数ページにわたる心理描写が入る。こうした状況は、小説や漫画などの「静的な」メディアのほうが表現しやすい。

逆に「遅い」物語、本の読みかたとして「行間を読む」ことを要求されるものとか、**含蓄のある文章**などと表現される小説などは、本来は文章メディアの不得意な分野だ。映像が無い時代、こうした遅い物語を書ける技量というのは貴重だったかもしれないが、現在は動画メディアの時代だ。こうした文章表現は、遠からず動的なメディアにとって代わられるだろう。

##物語の持つ「間」の力
[ひぐらしのなく頃に](http://07th-expansion.net/Soft/Higurasi.htm)というゲームが面白い。アニメ絵の女の子の立ち絵に引いてしまい、全く食わず嫌いを囲っていたのだが、「面白い」という評判があまりにも多いので体験版をやってみると、これが本当に面白い。面白いというか、非常に怖い。

内容は推理もの、あるいはスリラーやホラーといったジャンルに分類される物語。ゲームといっても画面上のストーリーを追っかけているだけで、こちらにできるのはただただ文字を読むだけ。要は絵のついた小説。プログラムの技術的には、たぶんそんなにすごい技術が使われているわけじゃない、と思う。

ところがこれが怖い怖い。自分はホラー映画は相当見ていて、それこそ「サスペリア」が流行した頃から、「エイリアンvsプレデター」まで、主だったホラー映画は大体見ているが、それでも怖い。ホラー小説も多数持っているし、残酷な映像や物語も、大体日常が「そのもの」だ。耐性は相当できている。それでも怖い。

怖さの原動力になっているのは、たぶん「間」の取りかたが抜群に上手なためだ。

物語の流れの中に挿入された「間」は憶測を生み、得体の知れない恐怖を作る。

PC上で読む小説というのは、読むスピードは読者の自由にゆだねられている。この部分は静的メディアの「スピード」という利点が生かされ、どんなに膨大な心理描写であっても、それが文字で記載されている限り、読者はストレス無く読み進められる。

既存の小説と違うのは、時間軸の取りかただ。

既存の小説では、時間のイニシアチブは読者のものだ。歴代の文豪は文章を工夫したり、文体を工夫したりして、なんとか小説に「間」を作ろうと努力してきた。

PC小説の作者は、その工夫を簡単に乗り越える。PC上で読む小説の場合、怖さを演出するために「間」が必要な場面では、文字が出てくるスピードが勝手に遅くなる。この瞬間、時間のイニシアチブは読者から奪われる。「奪われた」という感覚は、強烈は不安感を読者に与える。ホラーの演出にはもってこいだ。

PCメディアは、間を作ったり、時間軸を読者から奪ったりする行為が簡単にできる。こうしたものを作るために、小説や漫画といった静的なメディアは様々な工夫を重ねたが、最初からこうした方法が取れるPCメディアには、表現の方法で絶対にかなわない。

これは小説の上位互換メディアだ。ちょうど白黒映画に対するカラー映画のような。

きっとまだまだ未完成だけれど、時間軸の支配権を自由に与えたり、奪ったりできるというメディア、それも小説の技法から発展してきた文章メディアというものは、たぶんPC小説やアドベンチャーゲームといったものが初めてだ。

こうした表現方法の進歩以後、もしかしたら既存の文章メディアは、その表現技法の一部を放棄する必要があるのかもしれない。

自分は白黒映画は良く知らないけれど、きっと白黒世界で「カラー」を表現するために、いろいろ工夫された技術というものは、過去にあったはずだ。

カラー時代になって、白黒画面という記号には、独特の意味がもたされるようになり、いまだに白黒映画というものは生き残ってはいる。しかし、もはや白黒画面で全て表現しようなどと考える人はいない。

##図書委員会の本の読みかた
文章メディアの表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語というのは、なにか作者の考えた内容というものがまずあって、それを読者により有効に伝えるための演出として、文章に起伏を作る。いい文章には2種類ある。内容のパワーで読ませる文章と、日常生活の軽い雑記のような内容でも、読むと気分がよくなる文章と。どちらも持ち合わせていないのは、つまらない文章だ。

昔図書委員をやっていたころに教えられた斜め読みの方法というのは、このうち「内容」だけを抜き出す方法だ。

当時通っていた高校では、毎年夏になると300冊近い本を購入する。図書委員は、夏休みの間にその全てに目を通して、あらすじを知っておく必要がある。

購入した本は、全てカバーをつけて、図書カード(もちろんPCデータベースなんてあるわけが無い。8インチフロッピーディスクが最新メディアだった頃だ)に内容を記入する。そういった手続きをする間、その本を「読む」。もちろん斜め読みだが、それには方法論があった。

1. 最初に表題とあらすじを読む。これは普通に読む。
2. その後は各ページの右上4行、さらにその上半分だけを目で追っていく。
3. 本の中盤までページをめくらないと、主人公が誰なのかも良く分からないときもある。
それでも、単語を拾いつづけていくと、大雑把な内容はわかる。
4. 図書委員は大量の本を過去に読んでいる。過去に読んだ似たような話の「筋書きパターン」に、強引に単語を当てはめ、大まかな筋を「解釈」する。

当然小説の伏線とか、読者の期待を裏切る大どんでん返しは無視。自分が楽しむための読み方ではなく、夏休み明けに、借りに来た人に本を「紹介」するための読み方なら、これで結構いけた。

大体どのあたりで盛り上がるのか。どこが伏線で、それをどうやって消化するのか。誰が犯人で、それをいかに思わせぶりに、読者の期待を裏切るのか。それを工夫するのがプロの小説家の仕事なのだが、物語の内容だけを頭に入れようとする場合、そうした工夫は不必要だ。他人に本を紹介するときには、「自分がどう裏切られたのか」までは話す必要がない。

##静的メディアは先読みされる
予断を持って、あるいは既存のストーリーを強引に当てはめて本を読むと、作者の意図した興奮や感動といったものは読者に伝わりにくくなる。

内容は分かる。ところが、本をたくさん読んだ人ほど過去のプロットを多く暗記しており、先入観を持って本を読む。作者がどんなに文章を工夫しようと、読書好きの人間にはその努力は伝わらない。

さらに、本を読みなれた人間の視界というのは非常に広い。目に入った文字を、頭で「読む」には少し時間がかかるけれど、読者の目はその間にも先に進んでいる。

ホラー小説などでも、頭が**意味ありげなドア**の前にたたずんだ頃、目はすでに**ドアの先のモンスター**に会っている。だから「頭」がドアを開けても、そこに立っているモンスターは、すでに「目」の知り合いだ。怖くない。

通常の文字理解は「**目->音声化->理解**」なのだが、どうも「**目->直接理解**」という経路も、人間の頭の中にはあるようだ(速読術なんかはそれを利用していると主張している。出来ないけれど)。

小説家の意図した驚きとか、恐怖といった感情は、「間」の問題抜きには語れない。

小説を読みなれた人ほど、こうした文章のオーバーサンプリングをやるから、なおいっそう「間」を作りにくくなる。玄人の小説読みが推薦する本がしばしば難解で、逆に「素人受けする」本が、自称読書家に必ずしも受けがよくないのは、たぶん作者の意図した「間」というのが、既存の文章メディアでは一般化できないからだ。

PCゲームは、こうした「慣れ」とか「先読み」といった問題を、軽く乗り越える。間を作りたかったら、時間をとめたり、活字をスクロールするスピードを落とせばそれで済む。
先読みされたくなかったら、画面を切り替えなければいいだけだ。

演出が単純?

そういう批判は絶対に先読みされない文章を作ってから言ってくれ。白黒映画の監督は、かつて「カラー映画の**赤**は品がない」と批判した。白と黒しかない世界からは、どうやっても他の色は作れない。メディアとしての自由度は、もはや過去の文章メディアでは勝負にならない。

後半は後日。