広域抗生物質を使えば、耐性菌が増えるかもしれない。

医者がこうした「農薬」的な手段に手を出すと、世界のみんなが迷惑する。
だから、「正しい」治療を推進する先生方は滅多にCTを撮らないし、抗生物質はなるべく
「効きの悪い」ものを選択する。

正しい治療を推進する先生方、自分の身内にも同じ事をするのだろうか?もしそうなら尊敬する。
自分はいやだ。

子供が(いないけど)ひどく頭をぶつけたら、夜中であっても技師さんを拝み倒してCTぐらい撮るかもしれない。たとえその行為が予後を変えなくても、やはり不安の解消につながるかもしれない。

広域抗生物質。医者を長くやればやるほど「正しい」治療を行ったときの例外ケースで痛い思いをする。
どんな抗生物質治療のガイドラインも、結局は治療コストと、耐性菌発生のリスクと、抗生物質が「外れた」時のリスクとのバランスで推薦する薬を決めている。ガイドラインは何らかの妥協の産物で、人の生存確率に最適化しているわけではない。

医療の世界で「農薬」に相当する行為を行ったときにでてくる問題は、共有地の悲劇問題のそれに良く似ている。

>ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、
その家 畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。
>共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって
得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

ある医師が協定違反をすれば、結局は「みんな」が迷惑する。それでも、自分の目の前の患者さんについては、そうした協定違反はむしろメリットになる(かもしれない)。

不利益を受けるのは、常に自分以外の「みんな」と言う正体不明の集団。姿が見えないから、何が問題なのかが見えにくい。

それでもやっぱり、出来れば「正しい」治療をしたい。自分はそういう教育を受けてきた医者だし、
正しい治療というものには、やはり正しいなりのメリットといったものが、たしかに存在すると
一応信じてる。

避けられないリスクをリスクとして受け入れてもらえるものならば。

##「全てお任せします」が通用した頃
医者がもっと偉ぶっていて、数か少なかった頃。

「先生に全てお任せします」は当たり前だった。結果責任を追及されることは少なく、
医師は安心して自分の信じる正しい治療を行えた。昔は良かった。

医者の少ない島の病院では、誰かが入院すると、近所の人が交代で泊り込む(数年前はそうだった。今は知らない)。医者も看護師も少ない島の病院。島全体の失業率の高さ。時間の空いている人がたくさんいないと出来ない芸当だけれど、島の病院というのは働きやすかった。

検温や簡単な記録は、泊り込んでいる人が取ってくれるし、患者さんに何か問題があれば、すぐに呼んでくれる。派遣されてきた研修医ふぜいであっても、何とか病院をまわしていけた。

今思うと、あれはどうしようもない医者でもそれなりに役立てるための、地元の人たちの自己防衛にもなっていたのだろうけれど、島の病院の穏やかな相互不信の関係というのは、医師と患者とのお互いが、結構幸せになれるヒントがあったような気がする。

道を外したのは、やはり医療者側だったのだろう。「**患者は医師に由らしむべし。医療を知らしむべからず**」をやって、ある時期突っ張りとおしてしまったから、あやしげな「医療評論家」の跋扈を許してしまい、お互いの信頼関係を潰してしまった。インフォームドコンセントという言葉、大っ嫌いなのだけれど、あれを医者側から切り出せていれば、その後はずいぶん違った展開になったように思う。

今からでも、舵の切りなおしというのは可能なのだろうか。ネットの力というのは、バラバラになってしまった2者をつなげる助けにはならないのだろうか。

明日もムンテラだ…。