治療につながる知識というのは、例えば呼吸器内科に紹介するときは胸部CTとLDHの採血が必須とか、○○先生にコンサルトするなら月曜の午後が最高とか、この症状が出たら、こういう採血を取って

この科に相談すると解決するとか、医師同士のコミュニケーションを円滑に行うための
知識。これをたくさん知っている医師は、「ソツがない」とか、「使える」医師などと表現される。

前者の知識は、体験を通じてしか身につかない。こういう知識は共有できず、知識を得るには自分も
その道の専門家になるしかない。

後者の知識は、共有が可能だ。病院内で誰かが「うまいやり方」を発見したら、他の医師はそれと同じことを
すればいい。ノウハウは学習可能で、専門家の性格が変わらなければ、保存も可能だ。
手技は出来なくても、手技の出来る奴が友達なら、
治療は出来る。現在こうした知識を駆使しているのは一般医だが、将来的には機械化も可能だろう。

##本質は腕か考えか
治療のコンポーネント化、専門家のネットワーク化というものが本当に進むことがあれば、
救急外来医の仕事は簡単になる。

病気の「あたり」を大体付けたら、とりあえず一通りの検査を出して、患者さんに「タグ」を付ける。

どの科に振ればいいのか、主治医は誰なのかは考えなくても大丈夫。タグ付けされた患者は

専門家のネットワークの海**に放り込まれ、タグに応じた専門家は勝手に集まってくる。

>象に蟻の群れがたかるように、病気に対して専門家が押し寄せ、各々の領域に最適な治療を
>行っているうちに、患者のタグは変化していく。
>それとともによってくる専門家の顔ぶれも
変わり、病気の軽快とともに慢性期病院の専門家がベッドを手配する…。

人がネットワークを操作するなら、ネットもまた人の思考を操作する。

変化する患者の「タグ」に操作される専門家集団というイメージでは、主治医の思考というものが
専門家のネットワークの中から自然に発生していくように見える。

時代は循環する。腕を追求する専門家に対する反省から、最近は家庭医や一般医に人気が集まっている。

大きな施設に出来ることには限界がないけれど、スタッフ交互のコミュニケーションにかかるコストは
施設の規模に比例して増大する。
病院の規模が大きくなると、施設のピーク性能は高まっても、その効率はどんどん落ちる。

一般医は現在、大病院の効率の悪さを補間する存在として、その価値を見出されている。
その価値も、将来的には地に落ちてしまうかもしれない。

##ネットワーク化された医療の将来
「主治医の方針」というものは、究極的には機械化が可能だ。

現在は、専門家集団に比べて性能の劣る「一人の主治医」が、あいまいな知識を元に方針を決めている。

治療の方針というものは、本来はイベント駆動型。治療の結果を見て、次の方針が決まるのが正しい。
主治医が一人でそれをやるには、人間の体の情報というのはあまりにも多い。不十分な知識では
間違いも増えるから、治療の方針というのはある程度「見込み」でやらざるを得ない。

どうせこの先待遇が改善されることなんてない。
予算は削られ応召義務は拡大される。結果責任を問われる
傾向はますます強まり、仕事はきつくなる。

逃げ道などない。海外に逃亡できるガッツのある奴は、
そもそもこの時代に医師という職業など選択しない。

大きな病院には「人が増えたせいで増えた仕事」が山ほどある。
現在の一般医というのは、この仕事をこなして食べている。

専門分化が進んで、医師のネットワーク化が進めば、
例えば原因不明の背部痛を訴える人が整形外科の外来を受診しても、
レントゲンを取ったあとは消化器の医者が勝手にやってきて、
患者を自分の所に連れて行ってしまう。

そこにはもはや「総合的に」患者を診察できる医師の出番はなく、
ネットの世界に一般医の生き残る場所は残っていないのかもしれない。

医療の効率化は進む。絶対進む。どんどん進む。

乾いた雑巾を絞るように医師は絞られ、無駄なことは出来なくなる。

医療を絞って出てきた水は、患者ののどの渇きを癒す聖水になるのだろうか?
あるいは、効率化に止めを刺された一般内科医の末期の水になるのだろうか?

自分は一般内科医だ。少なくとも自分ではそう思ってる。

自分の居場所が将来なくなるなんて、そんなことは書いている自分が一番信じていない。
それでも、世の中にこれだけの数の「専門家」があふれていると、一般屋を
量産するよりは、今いる専門家を再構成した方が効率がよく見えてくる。

あとは、一般内科の気合と体力次第だ。