コモディティ化の果てにあるゼネラリストの約束の地

##「専門化した総合医」に未来はあるか
専門家の時代だ。

○○学会認定医とか、専門医とか。

医療の分野でも様々な「専門家」が活躍して、テレビの報道でも腫瘍の専門医の少ないことが
非常な問題として取り上げられる。

地方からは一般医が逃げている。

自分一人で外来から手術までこなさざるを得ない、一人医長の病院。
最近もまた訴訟騒ぎになってしまったけれど、問題の争点になっていたのは「専門家の不在」。
一般医は、いてもしょうがないらしい。

ゼネラリストもまた、専門家を名乗ろうと必死になっている。
「総合診療医」制度とか。臨床教育センターとか。

救急外来で人殺しをしたことのない奴に「総合」とか名乗ってほしくないし、
大体臨床の技術なんて、現場で「仕方なく」身に付くものであって、「教育」されて覚えるもんじゃない。
ずっと一般内科医を名乗っているけれど、ああいう人達とは、あんまり一緒にされたくない。

今の時代、専門を持たない人間は、居場所を確保するのが難しい。

##業界はゼネラリストが作る
病院というのはもともと、医者が必要とされていて、医者がいないところに出現する。

本土であれば大きな病院が後ろに控えている。手に余る患者はそちらへ回せばいい。
ところが、島の病院や、むかしの沖縄中部病院の
ようなところでは、自分達で「全部やる」以外に選択肢がない。

そういう病院では、風邪の人から重症心不全の人まで、なんでも外来に来る。
外来をさばき、重症度評価をして優先順位を付け、治療から退院までのマネージメントをして、
時間があったら手術を手伝う。医者は必然的にゼネラリストになってしまう。

ゼネラリストばっかりの病院と言うのは、何でも診るから人が集まる。
医者はいつも追い詰められているから、時間に追われて「正しく」やっている暇などない。

そういう施設には独特の分化が育ち、それは外の施設から見ると、しばしば画期的に見える。

沖縄中部病院の屋根瓦研修。某会のアメリカ流の研修方式。

共通するのは、人がいない、あるいは教える人がいないがための苦肉の策であったのが、
気がついたら「画期的な研修」と、お上にレッテルを張られていたという点だ。

##業界の成長と専門家の時代
一般医しかいない病院は、だんだんとその規模を拡大する。

評判がよくなって、良くも悪くも注目を集めるようになった施設には、「専門家」が乗り込んでくる。

専門家はしばしば前任者を批判する。