戦うときに大切なこと
うちの高校は共学だったけれど、高校3年になるまでは男女は隔離。
3年生になって、初めて机を並べる「共学」になるのがならいだった。
5年間もの男ばかりの生活の後の共学。男子生徒の2/3は奮起し、受験の成績は向上。
残りの1/3は「愛」に走り、成績を落としたという。
3年生に上がるとき、学年主任の先生から訓示があった。
>諸君、恋愛は素晴らしい。
>人は愛することで悩み、考え、成長する。
>多いに楽しみ給え。
>わたしは生活指導教諭として、**全力でそれを阻止しよう**。
この訓示の教訓は2つ。
建前と本音とは使い分けろということ。そして、本当に**面白いことは隠れてやれ**ということだ。
##戦う大学
自分の父親は大学の職員だった。
バブル景気真っ盛りの頃。父親の勤めていた大学の卒業生が、企業の内定が
決まっていながら、それが直前になって覆されたことがあったそうだ。
その卒業生が大学当局に泣きついたとき、教授会はその学生の在学中の成績、
素行などを入念に調べたという。
そして、その卒業生が「○○大学の卒業生」として何ら遜色のない学生であるということが
分かった後、教授会は全卒業生に号令をかけた。
>「**今後の進路については教授会が全責任を負うので、当該企業への就職の決まった学生は、
その就職希望を取り消してほしい。**」
はたして全卒業生はその企業への就職を断り、翌日には企業の部長級が大学へ飛んできたとか。
まだまだ全然ガキだった頃。日ごろ不機嫌だった父親が、珍しく機嫌よく話していたのを覚えている。
大学と企業との全面戦争。なんだかんだいっても、戦いの話は痛快で面白い。
問題なのは、「**戦いの支点にされた卒業生**」のその後の話だ。
父親の話は、その卒業生の人が無事に企業への就職が決まり、全卒業生は予定通り
その企業へ就職できた、というところで終わる。
その後はどうなったのか?その人は今でも幸せなのか?「あの抗争の当事者」という肩書きが
重くなかったのか?今でもそのことを言われるのは苦痛でないのか?
いろいろ疑問はつきないけれど、解答は分からない。
##「戦う」のはいいことなのか?
福島県の産科の先生が、ついに起訴された。
支援の輪が広がりつつある。
専門家でないかぎり、あるいは当事者でないかぎり、
「実際のところどうなのか」は分からないけれど、とりあえず寄付をした。
話はどんどん大きくなっている。
学会や医師会が声明を出した。署名活動も進行している。
掲示板では福島県の警察上層部、保健関係の事務職、事件の舞台となった
病院の幹部が「敵」として槍玉に挙げられ、みんな怒りの声をあげている。
味方が増えるのはいいことだ。それでも、当事者の先生にとって、今の状況というのは
本当に「いい」ものなのか。
警察を相手にするのは大変なことだ。
過去にトラブルになりかけたことがあったりするのだけれど、
とにかく嫌だ。
統制のとれた組織を相手にする恐怖。個人が組織を相手にするときに感じる無力感。
自分のは完全な「巻きこまれ」ケースだったけれど、こういうときには個人というのは本当に無力だ。
同級生は味方になってくれても役には立たなかったし、
当時は法律に詳しい人にも知り合いはいなかった。
何から手をつけていいのかも分からなかったけれど、何をしたいのかははっきりしていた。
「**元に戻る**」ことだ。
当事者にとって、なによりも一番大事なのは「日常に戻ること」であって、
反体制のヒーローとして祭り上げられることじゃない。
自分の時は、結局は病院長に相談した。
>「後は全部自分がやるから、先生は現場に戻って、問い合わせが来たら全て
病院長あてに回しなさい。」
なによりも、病院長のこの一言がありがたく、事実そのとおりになった。
今でも本当に感謝している。
##手を汚さずに人を潰す方法
今の状況は、伝統的な「いじめ」の手法を思い出させる。
「いじめ」をあんまり露骨にやると、犯人役の上級生が大目玉を食らう。
何とかして「手を汚さずに」下級生にストレスを与えられないものか。
いろいろな方法論が編み出されてきたけれど、その一つが伝統的な尋問手法、
「いい警官と悪い警官」の変法だ。
1. まず「悪い」役の上級生がターゲットの悪口を言う。
2. 次に「いい」役の上級生がターゲットをかばう。
3. ターゲットは放っておいて、上級生どうしで喧嘩をはじめる。
4. どんどん険悪になっていく空気は、「戦いの争点」にされた下級生に非常なストレスを与える。
当事者がその場にいなくてもかまわない。ターゲットに何もしなくても、
上級生同士が喧嘩を続けると、そのままターゲットへのダメージを重ねることになる。
現在、刑事告訴された先生は、いまだに警察の中。「いい上級生」は支援者。
「悪い上級生」は、警察や県の職員。
話が大きくなればなるほど、両者の対立が強くなればなるほど、「争点」となった産科の先生への
圧力は強まるばかり。
話が大きくなるのは、必ずしもいいことばかりじゃない。
##戦うときに大切なこと
戦うときに一番大事なのは、**相手の面子をおもんじる**ことだ。
勝つことに力を尽くすのはもちろん大切なのだけれど、
それよりも「相手が負けやすい環境」を作ることに力を入れる。
解決はそれだけ早まる。
全面戦争の末の勝利は気分がいいけれど、致命的な禍根を残す。
味方というのは一時のものだけれど、敵は一生のものだ。
負けた者の面子というのは、しばしば命よりも重い。
警察 vs 医者という側面から見た今回の事件。どう考えても医療者側には
非はない(民事はともかく、刑事ではないと思う)けれど、医療者側が勝ったら
警察の面子は潰れる。
復讐はなされなくてはならない。相手の「象徴」となった人物をつけまわして、
何かの罪を探す。痴漢とか、万引などの軽犯罪なら最高だ。
ネガティブキャンペーンの効果は、こうした恥ずかしい犯罪の法が効果的。
疑い病名さえ付ければなんだってありなのは、医療の業界だけではない。
医者が病名をつけるプロならば、警察だって罪名をつけるプロだ。
なんだってあり。少なくとも自分が警察のえらい人なら、迷わずそうする。
闘争の規模がどんどん大きくなっている現状。「建前」の部分だけ見ると、
「勝つ」努力は見えていても、「負けやすくする」努力は見えない。
##大切なのは水面下
この闘争で大切なのは、医療従事者の司法独立性を勝ち取ることとか、
疲弊しきった地域医療の体制の不備を国民に訴えるとかじゃなくて、
警察に連行された産科の先生に、一刻も早く日常臨床に復帰してもらうことだ。
できることなら、以前よりも少しだけいい条件で。
警察の思惑はなんだったのだろうか?
一人の逮捕を通じて、医者全体に警告をしたかったのか。
それとも、告発者家族に、誰か謝るべき相手が他にいるのか。
警察だって、人が動かす組織だ。誰かに何らかの意図があるから、法律を解釈して、組織が動く。
表に出てくる話だけでは、意図というのは絶対に分からない。
医療従事者の目的が、全面戦争じゃなくて当事者の先生の日常の回復(ですよね?)にあるのと
同様、警察サイドにも「被告を刑事告発する」以外の意図は、当然あるはずだ。
どんな交渉ごとにも、必ず2つの側面がある。「建前」の部分と、「水面下」の部分と。
水面から下の部分さえあれば船は浮くけれど、水面から上の部分しかない船は船としての用を無さない。
水面下の議論と水面上の議論、この両者の「大きさ」のバランスというのはとても大切だけれど、
いま見えている「水面上」はとても大きい。水面下では、どんなレベルの交渉が行われているのだろうか。
表に出てくるえらい人同士、水面下の交渉というのは必ず行われているはず(もしもそうでないなら
相当問題だと思う)だけれど、今の「水面上」の部分の成長速度はとても大きい。
これは、想定の範囲なのだろうか?
##味方の匿名性と支援の堅牢さ
味方というのはいつかは消える。
負けた恨みはいつまでも残るけれど、勝ちはすぐ飽きる。
飽きないように、また人が入れ替わっても支援が続くようにと、
支援者というのはいつも団体を作る。
団体というのは、個人を匿名化してくれる。匿名の問題点は多いけれど、
隠れるメリットというものもまた多い。
闘争を平和裡に行うコツは、「敵」を実体化しないことだ。
争点は、お互いの目的であって、相手の存在そのものではない。
相手をあえて「実体化」しないことは、闘争の終了を
相手の存在否定につなげない**ようにする効果がある。
味方も同様だ。相手から実体化されると、結局その人にツケが回る。
何かを代表する名前が出ると、その人がいなくなった時点で「味方」は終了だ。
支援の輪が広がっている。
メーリングリストなどで、自分の名前で「○○先生を支援しましょう」と
署名を要求している人がいる。
何をしたいのだろう。
当事者の先生を助けたいのか。それとも、単に自分がヒーローになりたいのだろうか?。
##対立で得をするのは誰か
結局何がいいたいのかといえば、「もう少し穏やかにやったら?」ということだ。
全面戦争はとても面白い。なんとなく勝ち目もありそう。
だが、表だって対立を強調するやりかたではなく、もう少し隠れてやれる
方法もあるような気がする。
総医療と総司法との全面対決。
かつての三池炭鉱闘争。結局一番得したのは労働者でも資本者でもなくマスコミだったように、
今回の闘争も、話が大きくなって喜ぶのは報道関係者ばかり。
不満は渦巻いている。何かのきっかけさえあれば、荒ぶる神は
いつでも降臨できる昨今。
それでも、望んでいない人を「憑坐(よりまし)」にするのはどうかと思う。
Web上のいろいろなところで進軍ラッパが鳴っているけれど、
個人の不幸を全面戦争のきっかけにするのは、やはり誰かが不幸になる。