被告のおばさんは、は記者の質問には礼儀正しく応えていたらしい。でも普通に喋ってるところは滅多に放送されない。

某巨大掲示板からのコピペ。当事者ならば何が正しいのかは知っていることなのだろうけれど、
伝えられている情報の評価のしかたひとつで、現実なんて簡単に揺らぐ。

>観測者が善悪を決定し、その意志に従って過去の事実が再編集され、「真実」として新たに流通する。

大事なのは真実それ自体ではなく、
「**どちらを悪にしたら面白いのか**」という評価者の意向のほうだ。

##発信の技術の次にあるもの
表現技術の進歩と、発信技術の進歩。
その結果として生じた、情報の評価の一人歩き。

ネットでの評判をそのまま受け取っていては身が持たないし、
もはや「いい」「悪い」は評価者の意向いかんでいくらでも逆転しうる。

WEB 2.0 時代に発信された情報は、発信された段階では「いい評価」と「悪い評価」との
重ね合わせの状態にあり、最終的な評価は確率論的に変化する。

予測可能な決定経路はもはや存在しない。
総論賛成だけど各論反対といったような、中間の状態に落ち着くことはほとんどない。

発信された情報の価値というのは、「大きさ」と「方向」との2つの側面を持つ。

ビラまきの時代。ビラに印刷された文章は、大きさと方向の2つから評価された。
どんなに議論を呼ぶ意見であっても、賛成の人が多くなければ、価値は無いも同然。

評価者の評判の総和は、そのまま作者への評価になった。

発信の技術が進歩した現在。情報の価値というベクトル量のうち、「方向」を決定しているのは
ほとんどの場合評価者であって、そこに発信者は介入できない。

「善」か「悪」か、「正しい」か「間違ってる」かという方向の問題は、
もはや発信された「情報の価値それ自体」を評価する尺度にはならない。

>「〝**よくやった事の報酬は、それをやったって事だけ**〟さ…」

報酬は、結果に対して払われるものではない。やったことそれ自体に対して払われるべきだ。

##ベクトル量からスカラー量へ
Google AdSense とか、はてなブックマークといった新しいネットツールは、
流通している情報の「大きさ」のみを取り出して評価するシステムだ。

いい評判だろうが悪い評判だろうが、大事なのは議論を引き起こしたことそれ自体で、
評判の向き自体はたいした問題じゃない。

>1年早く免許を取得して働く医師を増やすことで、医師不足解消を目指す。

その発想の是非については、正直異論をはさみたい部分も少しはあるけれど、
「どう見られたか」ではなくて、「どれだけ大きな反響を作ったか」のかのほうが重要だ。

反対されること、叩かれることというのは、肯定的な評価をもらうのと同じこと。
少なくとも、その行為には、何らかの議論を巻き起こすだけの力があったということだ。

冷や水ぶっかけるのは年寄りの仕事。火をおこすのが若者の仕事。

自分はこうした活動に挫折してしまったクチだけれど、
否定的な声に負けずに、自分達の作った炎の大きさを糧にして、ぜひとも先に進んでほしい。

一番厳しい評価というのは、叩かれることではなくて、無視されることだ。

>**愛の反対は憎しみではなく、無関心である**

マザーテレサだってそう言ってる。

叩きなんて、反響無いのに比べれば……(泣)。。